第3章:後光厳院流と崇光院流ー室町時代前期
1)義詮・細川頼之と皇統問題
後光厳践祚後の朝儀
★光厳院と直義の関係は「君臣一体」であったが、観応の擾乱により終焉を迎えた。しかし、それであっても、さらに後光厳が天皇となったとしても、光厳こそ「我が主」と感じている廷臣がほとんどであったであろう。そのため後光厳の基盤は不安定なものであった。そこで幕府は後光厳の朝廷政治にも積極的関与することとなり、廷臣たちは、後光厳についていくことの覚悟を決めさせられ、日和見のものは厳罰対象となった。
後光厳天皇の求心力と内乱
★後光厳はただでさえ廷臣に「ナメられる」条件が揃っていた。「群臣議立」(臣下たちによって新たな天皇が即位)は継体天皇以来。正当な手続きを経てなったわけでないし、三種の神器もない、治天の君も存在しない。
※安徳天皇が三種の神器の宝刀とともに投身したことは源頼朝と義経の兄弟関係をぎくしゃくさせる一因となった。しかし、治天の君である後白河院によって、後鳥羽天皇即位が後押しされる。後光厳はその治天の君であり得る光厳ですら南朝に軟禁されて、いなかった。
後光厳期北朝の求心構造
★後光厳の求心力が失われることは、北朝天皇を担ぎ出すことによって自らの存在を正当化してきた室町幕府にとっても重大な問題であった。そのため、南朝同様に北朝も信賞必罰の姿勢で廷臣に接した。朝廷儀礼に労を惜しまなかったかどうかも平時における評価ポイントとなった。そしてそのような北朝の姿勢を幕府の軍事力が担保したことが重要でもある。当時の将軍は義詮。


土岐頼康とは
★在京して幕府の評定に出仕する守護を大名といった。在京とそうでないもののどちらが得かといえば、幕府が十分に機能しているのなら在京した方がその恩恵に預かることができやすいので得である。一方、機能しなくなった場合は在京する意義は薄まるため、応仁の乱以降は領国に下向していった。細川、山名と並んで有力大名であった土岐頼康は在京し、そこで人脈を築いており、公家どうしのトラブルの調停を行ったり、春屋妙葩(夢窓疎石の甥)の後ろ盾としても活躍した。
応安の政変の背景
★春屋妙葩は夢窓疎石の後継者のような存在であったが、細川頼之とは対立もあった。それゆえ土岐頼康と細川頼之の関係もまた微妙であった。応安元年(1368年)1月には土岐頼康と細川頼之が武力衝突する、という噂も轟いたほどである。細川頼之の執政は将軍義満を思ってのことだが、それが少なからず守護の利益に反することがあり、少なからぬ守護大名が土岐頼康を支援した。もっとも、結果的に土岐頼康は美濃へ引っ込む。この土岐頼康下向事件のことは「応安の政変」と言われることもある。この政変の背景には、後光厳派を支援する細川頼之に対して、反細川頼之派が崇光派を推す、という派閥争いがあった。
応安の政変の結末
★皇位継承問題は後光厳派に軍配が上がり、緒仁親王が即位した。後円融天皇であり、応安4年(1371年)3月15日に着袴の儀を行い、そのまま親王宣下し、23日に即位儀という早業である。もちろんこれには幕府のバックアップもあった。



2)義満の皇統観
南北朝合一と南朝の歴史
★成人後の義満の天皇家への接し方は「アメとムチ」。南北朝合一に関しては、南朝に三条件を提案した。それは、
①三種の神器を後亀山天皇から後小松天皇へ移す。
②今後は後亀山と後光厳の子孫で皇位を迭立。
③諸国の国衙領を後亀山の子孫、長講堂領を後光厳の子孫が相続していく。
しかし、約束は全く果たされようとせず、1412年、後小松天皇から称光天皇へ継承。現実を悟った後亀山は京都から姿をくらました。(後南朝のはじまりでもある)
常磐井宮と大覚寺宮への措置
★義満は南朝に冷たかった、というか粛々と処遇していった。
常磐井宮満仁は亀山の曾孫であるが、1383年の踏歌節会において、出仕を強要。常磐井宮は作法の手助けを二条良基に要請したが、義満の意向で拒否された。みんなの前で晒し者にしようとしたのであろう。さらに、1395年6月に義満が出家した際は、常磐井宮も出家させられた。皇位に近づく可能性が限りなくゼロになったのである。
大覚寺宮こと亀山天皇皇子の寛尊法親王は、僧侶としての身分を高くして還俗させない状態にした。
後亀山への措置
★後亀山は1397年11月に上皇号を返上し、そのまま隠棲。応永17年に嵯峨から吉野へ移った。義満は上皇の名前はくれてやるが、皇位回復は諦めろ、と冷遇していた。
崇光院への扱い
★崇光院が1398年1月13日に崩御したが、義満は踏歌節会を延期することはなかった。葬儀も10日間行わず放置。崇光院を丁重に扱わないことで、皇位とは無関係の一族と認識させた。
栄仁親王への扱い
★崇光だけでなく、その子孫にも態度は一貫していた。崇光院崩御の4ヶ月後、栄仁親王は出家させられた。同時期、長講堂領が崇光院流から後小松のもとに移された。
札束で頬を叩く
★1396年には義満は伏見殿で対面した崇光院にお金をあげる一方で、酒をついだ。これは臣下であることを意味する。さらには相撲も取らされた。これは崇光の神性否定である。義満は一貫して後光厳流を支持していた。
3)後円融天皇と義満
時間に厳しい義満
★1380年、久々に石清水臨時祭が行われた。当時の貴族たちはダラダラする時間感覚で行動形態だったが、義満は再三せかした。義満は予定通りに物事が進まないと許せない性格である。
廷臣総動員
★命令しなくても廷臣なら全員が朝儀に参加して当然、という感覚。
義満の一貫性
★遅刻も許さず。当時の貴族は遅参とサボりが常態化していたが、義満はそれを許さなかった。あるべき姿に強い意志をもっていた。やるべきことをちゃんとやる、これに尽きる。
後円融の孤立
★康暦2年(1380年)8月7日。後円融が廷臣と酒宴中、義満が訪ねてきた。義満は酒宴中と知ると帰ろうとするが、それを聞いた後円融が慌てて押し留め、場所を変えて飲むことに。義満の言いたかったことは「笙を演奏してみてはどうか」ということだったが、後円融がはぐらかしたことで、苛立ちが加速。笙は後光厳や尊氏、義満もたしなんでおり、後光厳院と足利家の関係を象徴するものであったのにだ。後円融は二条良基にも嫌われている。
後円融の性向
★永徳2年(1382年)10月25日、二条良基が義満に告げ口。後小松天皇の即位儀が近づいているのに、上皇となる後円融が全然動かない、返事もしないと。それゆえ後円融を無視して進めることとなった。後円融は機嫌を損ねると拗ねてサボることがとにかく多い人物であった。やるべきことをちゃんとやらない、できないため、義満との相性は最悪。

後光厳仏事の妨害
★義満は後円融を「存在しない」として扱った。後円融主催の仏事には廷臣を出席させなかったこともある。1383年の後光厳の命日の追善仏事である。タイミングとしては院になった直後であり、これによって後円融の院政を否定した。
4)後小松天皇と義満
後小松の元服と義満
★義満が後円融に厳しかったために足利義満皇位簒奪計画説があったが、それは否定されている。義満が厳しかったのは後円融だけである。後小松天皇に関しては親和的。烏帽子親の役割も行うなど、親代わり。
後小松の即位儀と義満
★常に後見、盛大な式典をバックアップ。
義満の法皇化
★応永2年(1395年)に出家した義満は法皇として振る舞う。これは1393年に後円融が死んだために、公に後小松の父親代わりをしているもので、皇位簒奪の意図ではなく、後小松との関係性に基づくものである。
応永年間の義満
★義満は将軍でありながら公卿としても活躍したことが知られているが、永徳元年(1381年)6月に内大臣に昇格したあたりから本格的に公家社会に参入した。翌年正月に左大臣に昇格し、7年ほど在位して、1388年5月に辞任して、一区切りをつけた。その後は、明徳3年(1392年)12月末に左大臣に復任、応永元年(1394年)12月に義持に征夷大将軍を譲り、その10日後に太政大臣になる。太政大臣は名誉職なので、半年ほどで辞任して、出家した。
義満の出家と後小松
★出家すると聞いた後小松は狼狽。なんとか後見継続の約束を取り付けることができた。もっとも、後小松は政務から引退してしまうことを心配していたが、義満は最初からそんな気はなかった。
後小松の依存
★「尊氏様以降、公武は仲睦まじいが、義満様以降は、特に睦まじかった」と姉小路基綱という廷臣の記録にも書かれている。一緒に楽器を演奏する様子も。
