第5章:儀礼的昵懇関係とその裏側ー室町時代後期
1)後花園天皇と義政
義政の登場
♨足利義政(1436-1490)。後花園天皇より17歳年下。1449年、将軍となる。後花園天皇は1464年に後土御門天皇に譲位。
儀礼見物と舞御覧申沙汰
★総じて義政は歴代将軍の行動様式を踏襲した。それができた最後の将軍でもあった。
義政を注意する後花園天皇
★応仁の乱拡大で御花園上皇は義政に「世の中のことについて問題がないようにすることが大切だ」と苦言を呈する。これは両者の関係が険悪というよりは、良好だったからこそできた、と考えられる。
猿楽を介した交流
★芸能の好みが合ったことも両者が仲良かった一因。
和歌と蹴鞠
★能だけでなく、和歌や蹴鞠も行われた。義政が公家的教養に恵まれていたことも一因。日暮れまで蹴鞠を行い、そのあと酒宴なんてことも。ちなみにこれらの費用負担は将軍側。
上皇と天皇の共演
★応仁の乱が勃発すると将軍家と天皇家は同居することに。より一層交流が盛んに。後花園晩年まで行われた。
2)後土御門天皇と義政
内裏の焼亡
♨後土御門天皇(1442-1500)。足利義政の6歳下。
★1479年7月1日、内裏火災の知らせ。管領の畠山政長が救助に。
義政との不和と再建
★しかし後土御門にとって火災はどうも他人事。義政を頼りにするが、当時、2人は喧嘩中であり、義政としては「都合の良いときだけ頼ってくるな」となる。といっても義政は大人としての振る舞いを見せるが。
どさくさに紛れる後土御門
★どさくさに紛れて、三種の神器と自分の息子を義政にあずかってもらおうとした。これは次期天皇として頼むということで、それをするにはいろいろと諸儀礼の負担があるので当時の状況では難しい内容だった。なぜ後土御門は他の天皇が行ったような生前譲位ができなかったかという問題があるが、これは皇太子にいろいろと儀礼が必要だからである。
勝仁親王の元服
★結局、義政は勝仁親王の元服を請け負う。
元服費用をめぐる攻防
★紆余曲折を経て費用は天皇家に。
後土御門の意向
★ただ、後土御門はどこまでも図々しかった。だったら加冠役をやらせてあげない、まで言う。困ってお願いしている側がなぜか上から目線。応仁の乱によって将軍家も天皇家を丸抱えする余力を失っていたのだ。
3)天皇の葬儀と足利将軍家
御花園法皇の崩御と義政
★義政はいろいろと尽力。
追善を続ける義政
★十三回忌まで行われる。
後花園の葬礼
★細川勝元は戦時中を理由に法要も控えるよう進言するが、逆に法要に同席させる。
後小松の崩御
★対照的に後小松崩御時の義教は淡々としていた。
見え隠れする義教の本音
★葬儀も風邪を理由に欠席。
後円融葬礼と義満
★義満はネグレクトして廃人同然に追い込んだ後円融の葬儀には参列。これは政治的パフォーマンスであり、儀礼的昵懇関係といえる。
4)伏見宮家と義教ー貞成の視点から
貞成、将軍と出会う
★貞成の「看聞日記」から、将軍家は恐れられていたことがわかる。
義教の片思いに戸惑う貞成
★貞成は怖いほど義教に厚遇されており、気に入らない側近はどんどん首にされた。気難しい義教にビクビクしていた。
義教横死と貞成の感想
★諸大名のことを「どうしようもない連中ばかりだ。諸大名もグルだったということか」と書いている一方、義教の死を悲しんだ文章は一行もない。
足利家の立場
★足利家は鎌倉幕府において「2番手グループの一角」に過ぎず、繰り上がりでナンバーワンとなったが、権威としてはまだ弱かった。源義家との血統をアピールしたりしたが、、
天皇権威の利用
★しかし、京都に所在していたため、「鎌倉幕府の政権担当者」の後継者であるアピールは破綻。しかも間接支配体制であり、とても後継者ではない。そのため死ぬ前の義詮がとったのが、天皇権威の利用である。義満への継承を天皇に保障を求めた。
天皇家と将軍家の基本的関係
★問題としては天皇家の権威がなくなれば、将軍家も権威がなくなる。そのため、将軍家は王家の執事として振る舞った。運命共同体である。