第6章:生き残る天皇家ー戦国時代
1)天皇家と将軍家の同居
内裏と里内裏
★1227年に内裏が火災により焼亡して以後、内裏は再建されることはなかった。そこで天皇は宮城の外に私邸をつくって住んだ。そこを「里内裏」と呼ぶ。
室町時代の里内裏
★里内裏もしばしば火災を受ける。
室町将軍の御所
★みなそれぞれ引っ越しを経験。ただ、里内裏とは極めて近い。つまり、天皇家とは「ご近所さん」。
応仁の乱と室町弟への避難
★1467年正月。畠山家の家督をめぐって対立していた畠山政長へ、畠山義就や山名宗全が軍勢を率いて将軍御所に立て籠もる。政長は即座に自身の屋敷に火をかけて、軍勢を率いて御所近くの上御霊神社に陣取る。細川勝元一族は政長に加勢しようとしたが、義政がパニックで自殺しそうだったので、山名も細川も助勢しないことを誓う。しかし、山名がちゃっかり義就に合力していたのが「上御霊社の戦い」である。合戦そのものは上御霊で行われたが、御所も相当近い。
同居の恒常化
★将軍御所だけは安全である。そのため、天皇家は将軍御所に避難。貴人の広い邸宅は陣取るには最適。応仁の乱の長期化に伴い、土岐氏は内裏に陣取り、仙洞御所は畠山義就が本陣とした。1467年9月から1468年正月までずっとで、年始の諸儀礼はおかげでできず。そうした外界の喧騒をよそに、将軍御所では義政と天皇家の間で雅な遊びが繰り広げられていた。
同居の終わり
★1471年7月、義政は日野富子との夫婦喧嘩を発端に、将軍御所を出て、細川勝元の邸宅を譲り受ける。一方、日野富子は実家に。義尚と来客であるはずの後土御門天皇が取り残された。ほどなく義政も日野富子も戻ったが。天皇家との同居解消は1476年。火災がきっかけ。
2)儀礼性の消滅と大飲
酒宴の日常化
★結果的に、天皇家と将軍家は同居することでどうなったかと言うと、「飲み会漬け」。互いに主催したり招かれたりを繰り返す。メンバーはだいたい同じ。特に酒宴を好んだのが義政。「例大飲」と記される。日野富子も一緒。
酒宴の娯楽化
★当時の酒宴はお座敷あそびに近い感覚。利き酒大会なども。そして泥酔がデフォルト。ただただ飲むことを楽しむ酒宴であった。
緊張感の欠如
★日野富子は私的に2次会を繰り広げた。連日。酒宴で身が持たない、と貴族の日記にもあるくらい。しかも男女混同。
文明改元に見る異常性
★上皇と天皇が同居するのも異常なことだったので、改元のための審議どうやったら良いかわからない感じ。
儀礼の衰退と変化
★儀礼にも変化。正月の儀礼などの挨拶儀礼も同居中で毎日飲んでるのだから関係ない。
昵懇関係の不可視化
★「どうでもよくない変化」が生じた。皇居で犬追物の練習をすることになったり。清浄とは程遠い。そうやって緊張感のない場所となった。なぜなら以前のように「他者の目」を気にする必要がなくなったからである。
3)義尚と北朝天皇家
大飲に対する義尚の眼差し
★義政と義尚の違いが天皇家との関係の過渡期的性格を示している。義尚は12歳で早くも義政と後土御門の酒宴に呼ばれているが、どうもそのような場が苦手だったらしい。欠席、早退、遅刻を繰り返す。(親戚の飲み会に呼ばれても面白くないのと一緒)成人後に「義尚は大酒飲み」という記述があるにもかかわらず。
公家社会との関係構築
★酒宴だけでなく挨拶なども敬遠。趣味の和歌などでは相手が迷惑なくらい公家たちに絡んでいくが、儀式張った場で公家衆と対面するのが苦手だった様子。
天皇家との関係構築
★公家だけでなく天皇家とも関係構築に消極的。
守護在京制の崩壊
★なぜ、それまで天皇家と将軍家の儀礼的昵懇関係に価値があったのかというと、守護在京制があげられる。応仁の乱勃発により、各地の有力守護は京都の情勢につきっきりとなり、領国支配は守護代に任せた。それら守護代が勢力を伸ばし、国人とよばれる中小領主も勢力を伸ばした。そのため、守護たちは急いで下向。そしてそう簡単に再上洛はできない状況に。
将軍権威再生産の背景と役割
★では、なぜ、守護在京制が成立したか。大名たち(細川、斯波、畠山、山名、一色、赤松、若狭武田ら)のルーツは佐々木一門を除いて東国に拠点をもっていた御家人。そのため彼らが新参者として畿内、西国で活動するには中央政体の権威を必要とした。それゆえ幕政に協力したのである。室町幕府が安定する頃になると、彼らも現地で力を蓄えていたために、あえて中央政体に頼る必要がなくなっていた。そこに応仁の乱が加わり、周囲の守護大名たちとの競合もはじまり、権威よりも実体(軍事力、経済力)が重要となった。
儀礼的昵懇関係の正体
★天皇家との昵懇関係を見せつけることで他の大名との違いを意識させていたが、他の大名たちの分国支配が安定した14世紀末には室町幕府の存在意義がなくなった。それでも応仁の乱までは権威付けの対象とされたのは、将軍と結びついている、という権威である。しかし、それも無意味となった。天皇家との儀礼的昵懇関係も無意味となったことを義尚は感じていたのであろうか。
4)後柏原天皇の嘆き
駿馬献上の儀礼
★後土御門天皇時代は義政が可能な範囲内で天皇家を援助していたので、まだマシ。その後の後柏原天皇の時代になると、最低限の資金援助も期待できなくなっていく。室町時代の天皇家は武家にしがみつく以外に方法はなかった。
応仁の乱後の貢馬用脚
★江戸幕府における徳川家と違い、室町幕府における足利家は所領も直轄軍も微々たるもの。将軍権威が必要なくなっていったのと歩調を合わせるかのように、各守護は将軍家への経済面での協力をしなくなっていった。
貢馬用脚を確保する努力
★戦国期に至っても天皇家は室町時代の方法論に基づいて資金確保を目指すしかなかった。
後土御門の崩御
★後柏原が足利義稙に源氏長者就任を求めたのは、「もう一度、昔のように甘えさせて欲しい」ということ。1500年9月に後土御門天皇が崩御したが、葬儀は11月。遅すぎる。後柏原の践祚儀は10月25日に行われ、将軍足利義澄も見物するとされたが、資金援助があるわけではない。そして、即位儀はなんとその21年後、1521年までずれ込んだ。
後柏原即位儀への道
★足利義稙は即位儀に積極的であった。1510年3月に申し出た。
即位儀の行方
★しかし、1511年の船岡山合戦やらの義澄派との戦いで疲弊。義稙も夏服を新調できない、畠山高国は播磨国に軍勢を出していた警固ができない、などの理由で延期につぐ延期。将軍家からの資金援助がなければ即位儀すらできなかったのだ。
終章:中世の終焉
即位儀が遅れた背景
★足利家窮乏後に天皇家のパトロンたりえる存在となった武士たちの姿勢。
(1)細川政元…1493年の明応の政変でキングメーカーとして将軍家の黒幕と化す。「大がかりな儀礼を行ったところで実質がなければ無意味です」と言い切る。後土御門や後柏原が苦労した要因は当時の幕政主導者が政元だったことも影響。
後奈良天皇の即位
★その後。
(2)大内義隆…戦国初期に活躍。後奈良天皇の即位儀挙行の功労者。莫大な資金を援助する。政元のようなタイプと義隆のようなタイプは両極端だが。
織田信長と足利義昭
★その後。
(3)織田信長…ここ20年ほどの研究で信長が既存の権威の破壊者ではないことが証明されており、むしろ義昭に天皇家を大事にするように諭している(1572年9月、17か条の意見書)。義輝(13代将軍)もおろそかにしたと非難した。鎌倉幕府から信長に至るまで中世における武家政権は一貫して天皇家を支えることを自らの役割の一部とみなしていたし、天皇家はそれをさせることで相手にメリットがあるという立場を最大限に利用して、中世を生き抜いた。
あとがき
★持明院統北朝天皇家は「理想を追うのではなく現実を受け入れ、そのなかで自分の勝ちを最大限に活かす」という姿勢を示した。対して南朝は理想を標榜してそこに現実を合わせようとした。そのため人気があるが、現実的にやはり難しかった。
★「クロ以外はクロでない」とする北朝に対して、「シロ以外はシロでない」とするのが南朝ともいえる。グレーゾーンの価値観は古今東西、あらゆる社会でせめぎあっており、学校教育は後者、社会は前者であり、世の中のフレッシュマンはそこにまず苦労する。
★昭和は前者であり、終戦後の生きていくだけで精一杯だった時代の名残から「シロ以外はシロではない」などといってる場合ではなかった。しかし、時代が進むにつれて、「シロ以外はシロではない」という価値観が進み、現在は「クロ寄りのグレー」が排除されつつある。(ネットにおける「不謹慎狩り」などを見ると令和では「シロ寄りのグレー」すら許されなくなっていくのかと思う)
★ただ、そのような社会は少しずつ生きにくくなっている気がする。