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☞【橘奈良麻呂の変、藤原仲麻呂の乱】『奈良時代の争乱』(古代史講義6-2)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、引き続き「奈良時代の争乱」です。

前編はコチラ

【奈良時代の争乱③】757年、橘奈良麻呂の変

背景には藤原仲麻呂の台頭があります。

橘奈良麻呂は藤原仲麻呂を追い落とそうとしますが、計画が不十分でした。

【藤原仲麻呂】

★叔母にあたる光明皇后の後ろ盾で出世。光明皇后存命中は、孝謙天皇との関係も良好であった。
★しかし、光明皇后死後、孝謙天皇との関係が悪化。藤原仲麻呂の乱につながる。

706藤原武智麻呂の次男として誕生。兄は豊成。
737天然痘大流行で父をはじめ、叔父たちも失う。
738阿倍内親王(のちの孝謙天皇:聖武天皇と光明子の娘)が立太子。
740藤原広嗣の乱。聖武天皇に付き添い関東へ。橘諸兄政権で順調な出世を遂げる。
744聖武天皇皇子:安積親王(藤原の血を引いていない)が17歳で謎の死を遂げる。藤原仲麻呂による暗殺説。
745橘諸兄政権を支えていた玄昉、吉備真備が左遷。玄昉は翌年死没。吉備真備はのち、遣唐使に任命されて唐へ。
746式部卿に就任。人事を司る役職であったため、自らの派閥を形成。光明子の後ろ盾があった
748橘諸兄の後ろ盾であった元正太上皇后が死去。
749阿倍内親王、孝謙天皇として即位。従兄弟である藤原仲麻呂は発言力を増す。
756聖武天皇崩御。
聖武天皇は孝謙天皇の皇太子として道祖王(ふなどおう)を指名していたが、死後、孝謙天皇、藤原仲麻呂によって廃太子となる。大炊王が立太子。(※大炊王:おおいおう は、藤原仲麻呂の私邸に住んでいた。)
757橘諸兄没。
橘奈良麻呂の変
760後ろ盾であった光明皇太后没。この頃から孝謙天皇との関係悪化が表面化
762孝謙上皇「国家の大きなことは私に、小事は天皇に」という有名な詔
764藤原仲麻呂の乱

古代史講義戦乱篇/藤原広嗣の乱はコチラ

古代史講義戦乱篇/橘奈良麻呂の変はコチラ

【奈良時代の争乱④】764年、藤原仲麻呂の乱

古代史講義戦乱篇/藤原仲麻呂の乱はコチラ

★仲麻呂が兵を集めて謀反したと「続日本記」には書かれているが、近年の研究では孝謙天皇の方が先に仕掛けたという方が実情とされている。(たしかに政敵を軍を動かせるような要職に就けないよな…)
★大権のシンボルで、文書行政に不可欠な駅鈴(えきれい)・内印(ないいん)の奪い合いになったという点が重要。
★藤原仲麻呂によって左遷されていた吉備真備が中央政界に復帰しており、彼の軍略もあり、3日で乱は平定された。
★その後、称徳天皇ー道鏡が実権を握るも、称徳天皇崩御後は道鏡も左遷。光仁天皇が中継ぎとなり、聖武天皇娘、井上内親王の子である他戸(おさべ)親王が皇太子となり皇位を継ぐ予定であったが、藤原百川(式家)らの策謀により廃太子となり、桓武天皇が担がれる。

駅鈴。wikipediaより。 兵庫県朝来市和田山町寺内 和田山郷土歴史館。官人が公務で七道を通る際、駅家で駅鈴を見せることで駅馬の供給を受けたり、宿泊できた。いわば身分証明書でもあり、通行商でもある。

※古代官道である駅路には約16キロごとに「駅家」という宿泊と食糧を提供する施設があった。ここで馬も供給され、駅馬を借りて都、あるいは地方へ向かった。

いろいろ書きましたが、このマンガを読むとすべて腑に落ちます。

次章は「地方官衙と地方豪族」