こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「774年、東北三十八年戦争まで」です。
『古代史講義戦乱篇』(東北学院大教授、永田英明先生)を参考にさせて頂きました。
少々長いので今回は「774年以前」と、「774年以降」に分けたいと思います。
①774年以前
★登場人物
①774年以前
「東北三十八年戦争」とは、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ:征夷大将軍として811年に東北制定)が命名したことでからその名前がついた。
しかし、38年間ずっと戦争状態にあったわけではない。
また、774年より前に戦争がなかったわけではない。
特に、「720年代前半」は戦争の時代であった。
略年表
647 | 孝徳天皇期、渟足柵が作られる(@越後) |
648 | 孝徳天皇期、 磐舟柵が作られる(@越後) |
654 | 陸奥国設置 |
658 | 斉明天皇期、阿倍比羅夫を東北派遣 |
708 | 元明天皇期、出羽柵が作られる(@庄内) |
709 | 越後国出羽郡周辺で戦闘。征越後蝦夷将軍として佐伯石湯を派遣。東国の兵士を徴発。陸奥鎮東将軍、巨勢麻呂も参加。 |
712 | 越後国出羽郡(庄内地方)を越後から分離して出羽国に昇格 |
720 | 陸奥蝦夷が反乱。按察使の上毛野広人を殺害。 多治比県守らを派遣し戦闘。 |
724 | 海道蝦夷が反乱し、陸奥国国司を殺害。 藤原宇合を派遣し戦闘。坂東九カ国から3万人動員。 ★聖武天皇期、多賀城設置(大野東人)。 |
733 | 聖武天皇期、秋田城設置(秋田市)。 |
737 | 多賀柵と出羽柵を結ぶ交通路開削に際して、山道蝦夷(内陸部?)、海道蝦夷が不穏な動きを見せるも、それぞれに豪族級の服属蝦夷を派遣して宥めることで大事に至らず。雄勝城(秋田県横手市)建設も中止にした。 ★天然痘大流行。 |
759 | 雄勝城造営、桃生城(石巻市)の建設が開始。桃生城は海道蝦夷へ圧力となる。 |
767 | 伊治城(栗原市)が最北の砦として玉造柵(大崎市)より20km北に作られる。 律令国家は徐々に境界線を北に。 |
770 | それまで国家に服属していた蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかんめいのきみうくつはう)が一族を率いて、蝦夷に戻る。城柵襲撃も予告。 |
774 | 陸奥按察使、大伴駿河麻呂、光仁天皇に征夷の判断を仰ぎ、許可を得る。 陸奥国の海道蝦夷が桃生城を襲撃し、三十八年戦争が開始。 |
★720年は、関東地方から大規模な移民が陸奥国北部(宮城県大崎平野周辺)へ押し寄せたことで、現地の蝦夷が反発して事件勃発。
★720年の戦乱の後、陸奥国から切り離されていた現在の福島、宮城県南部にあたる地域(石城、石背)が陸奥国に再統合された。大胆な減税、多賀柵設置、大崎平野の諸城整備、駐在兵を集める鎮兵制導入と軍制改革など、大規模な改革が行われた。
★724年の戦乱を最後に50年間は安定しており、上記改革が成功していたと考えられる。
♨他地域からの入植者を増やすだけではなく、帰属した蝦夷(俘囚)を他の地域に移すというようなことも朝廷は行っている。こういうことをするのはスターリンだけではなかった。(彼の場合は民族まるごと移住させる)
♨大和朝廷に服従しなかった「出雲国」の人たちが東北に移住したという説をどこかで見かけたが、興味深い話では有る。DNA的にはいわゆる「縄文人」の割合は東北と出雲に多い、というようなデータがあったはず。
→【この人の著作を読んだので覚えていたのであろう。斎藤成也先生】
★登場人物
阿倍比羅夫(あべのひらふ)
斉明天皇時代に蝦夷地方の領地を広げる伝説的武人。wikipediaには白村江の戦に出撃したとあるが、これは間違い??また、のちの安倍貞任が比羅夫の末裔・・・というのは何ともドラマチックであるが、これもどうも怪しい。ついでに安倍晋三首相とも関係が、とか言うが、このあたり、もうわからない。とりあえず、試験には出ない。
佐伯石湯(さえきのいわゆ)
709年の蝦夷決戦時の将軍。副将軍は紀諸人。出羽国建国に一役買う。
巨勢麻呂(こせのまろ)
同じく709年の戦に 陸奥鎮東将軍 として参戦。藤原武智麻呂の四男で兄の仲麻呂とともに戦い戦死した「藤原巨勢麻呂」とは別人物。
上毛野広人(かみつけのひろひと)
按察使として陸奥に派遣されていたが、720年の蝦夷の反乱で殺害される。群馬県のことを上毛というが(上毛かるたなどで知られる)、上毛野氏は群馬県にゆかりがある。群馬県は古代、強国であった。
多治比県守(たじひあがたもり)
717年、遣唐使。上毛野広人が殺害された後、蝦夷との対決に向かう。その後は藤原四兄弟政権のもとで活躍。藤原宇合とは遣唐使仲間。668-737。
藤原宇合(ふじわらのうまかい)
藤原不比等三男。式家の祖として知られる。年長の多治比県守がトップ、宇合が副として717年、遣唐使。724年、陸奥国司を殺害した蝦夷と戦争に。694-737。【コチラも】
♨彼の息子が乱を起こした藤原広嗣。【藤原広嗣の乱】
大野東人(おおのあずまびと)
~742年。724年に多賀城を造る。その後も蝦夷対策に従事。737年には多賀柵から出羽柵への道を制覇。740年の藤原広嗣の乱では大将軍として鎮圧に当たる。
宇漢迷公宇屈波宇 (うかんめいのきみうくつはう)
朝廷に服属していたが、770年、朝廷の管轄外の蝦夷へ戻り、襲撃を予告する。これに対して朝廷は道嶋(牡鹿)嶋足を派遣。
道嶋(牡鹿)嶋足(みちしま:おじかのしまたり)
蝦夷出身であったが、764年の藤原仲麻呂の乱で活躍して近衛中将に出世した武人。770年には宇漢迷公宇屈波宇が蝦夷に戻ったことを受け調査で現地入り。伊治呰麻呂の乱で出てくる道嶋大楯はおそらく一族。
大伴駿河麻呂 (おおとものするがまろ)
橘奈良麻呂の乱では処罰を受けるも、のち昇進。陸奥国司時代に東北三十八年戦争が勃発。真夏は草が生い茂っているので攻撃には適さないとして攻撃を躊躇したために光仁天皇から叱責を受けているが、その後、活躍。776年死去。大伴旅人・家持(藤原種継暗殺事件)親子、大伴古麻呂(橘奈良麻呂の変)・継人(藤原種継暗殺事件)親子、伴善男らは一族。
画像はwikipediaより。
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