こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「文武天皇」時代です。
文武天皇期に「大宝律令」が完成しました。
大宝律令は奈良時代のイメージがあったけど、そうではないんですね。
といっても、ほぼ「奈良時代」なんでしょうけど。
これには藤原不比等の功績もありました。
第42代:文武天皇期(697年~707年)
【文武天皇】…天武・持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。母は元明天皇。
軽皇子と呼ばれていたが、孝徳天皇と混同しないように。
大宝律令制定は文武天皇の時代。(持統天皇は健在で、実際の政治は彼女が行っていたが。)
藤原不比等の娘・宮子を夫人とする。25歳で死去。
697 | 文武天皇即位。 |
698 | 渤海国独立。高句麗の旧領で。 薬師寺ほぼ完成。 |
701 | 大宝律令制定 二官八省一台五衛府。国司は中央から派遣。郡司は国造などから任命など。 |
702 | 持統天皇死去。 渤海国独立により唐の影響が下がったタイミングで遣唐使再開。大使は粟田真人。随行員に山上憶良。 |
705 | 則天武后死去。 |
701年、大宝律令
持統太上天皇、藤原不比等(659~720)主導のもと、刑部親王(~705:天武天皇第9皇子)が総裁となって編纂されました。
ちなみに【養老律令】は718年。こちらも藤原不比等によるもので、内容はほとんど変わりません。757年に施行。
【律令制定に頑張った!藤原不比等】
659年~720年生。
藤原鎌足次男であるために出世したと思いきや、実は幼くして父を亡くした苦労人。
それでも下級役人時代から才能が認められ出世していき、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇の5代に仕えました。
律令の制定や国史の編纂なども彼の業績です。
「その後の藤原氏の繁栄の基を築いた・・・」的な言われ方をされることが多いのですが、藤原氏が本当に繁栄するのはまだまだ先です。
ただ、彼の息子である「藤原四兄弟」と、娘でともに皇后となった「藤原宮子、光明子」は奈良時代のキーパーソンでもあるので覚えたいところです。