こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「称徳天皇」時代です。
権力の絶頂にいた藤原仲麻呂を倒し、淳仁天皇を廃位させた孝謙上皇が重祚して称徳天皇となります。
称徳天皇は道鏡の親族を取り立てるとともに、道鏡を次の天皇にしようとするほど考えておりましたが、「宇佐八幡宮神託事件」で道鏡は皇太子と認められませんでした。
称徳天皇死後、道鏡も失脚します。
第48代:称徳天皇期(764年~770年)
【称徳天皇】
藤原仲麻呂を打ち破った孝謙上皇が重祚して称徳天皇となる。
自らの病を治療した道鏡の親族を取り立て、さらには道鏡を天皇にしようとしたが、和気清麻呂の裏切り(あるいは最初から道鏡を追い落とすために仕組まれていた?)によりその夢は実現せず。
道鏡事件はいまだ謎の部分もあるが、道鏡を中継ぎと考えていたのではないかという説もある。【コチラ】
765 | 道鏡が太政大臣禅師になる ※この頃、称徳天皇の発願で西大寺が造られた。 新たな墾田を凍結。(加懇禁止令) 「この禁令は効いたようだ。藤原仲麻呂という強大な権門を軍事的に破って天皇に返り咲く、称徳の実力と強靭な意志を甘く見るのは得策でなかったのだろう。」(桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」より) |
769 | 宇佐八幡宮神託事件 ※和気清麻呂の「宇佐八幡宮のお告げ」をもとに、道鏡は天皇になれなかった。称徳天皇は怒って和気清麻呂を「きたなまろ」と改名させた挙句に大隅へ翌年配流。 |
770 | 称徳天皇死亡、道鏡失脚。 |
765年、加懇禁止令
769年、宇佐八幡宮神託事件
結局、お告げを聞く役の和気清麻呂は、「道鏡を天皇にすべきではない」と告げます。これにより清麻呂は、「きたなまろ」と改名させられてしまいますが、後に「皇統の断絶を救った」ともてはやされることになります。
【和気清麻呂】
733-799年。称徳天皇側近の和家広虫の弟。当初は広虫が宇佐(大分)まで行く予定であったが、体力的な問題から清麻呂が行くことになった。
次の女帝誕生は1629年の明正天皇(徳川秀忠の孫でもあります)までとだいぶ時間が経ちます。