こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「下関条約」と「大韓帝国成立」の関係についてです。
結論から申しますと、
下関条約によって大韓帝国が成立したわけではありません。
その間にあった「2年間」を知らないと、事実を間違えるでしょう。
④閔妃殺害事件にまったく触れずに、この時期を説明するのは不正確(p98)
やはり、年表。
日朝関連年表 1895年~1898年
1895年4月17日 | 下関条約締結 |
1895年4月23日 | 三国干渉 下関条約締結6日後。ロシア、フランス、ドイツが日本に対して遼東半島を返還するよう要求。 ドイツの狙いはロシアの目をバルカンから極東に向けること。 ※日本はロシアを仮想敵国として軍備充実をはかる。 |
1895年7月6日 | 親ロシア化 ※日清戦争中、朝鮮国王はロシアに匿われていた。閔妃は政権を追われていたが、ロシアの軍事力を背景にして政権奪回。朝鮮は親ロシア国となる。 |
1895年10月8日 | 閔妃暗殺事件 日本公使・三浦梧楼が中心となりクーデターを起こして閔妃暗殺。閔妃の親ロシア政策に危機感を抱いていた。 なお、首謀者については複数の説がある。大院君が擁立される。 |
1896年2月11日 | 再び親ロシア化へ(高宗ロシア公館亡命:露館播遷) 今度はロシアが後ろ盾となってクーデター。日本は国王を捕らえて廃位しようとする動きをみせたため、高宗はロシア公使館に移る。そして、親露政権誕生。 ※とはいえ、朝鮮での利権を獲得したのはロシアだけではない。アメリカ、フランス、日本が進出。日露は議定書を2回も結び、利権を調整。列強のバランスはとれていた。 |
1897年2月20日 | 高宗、ロシア公使館から慶運宮へ移る |
1897年10月12日 | 大韓帝国独立(※大韓「民」国ではない) 国王は「皇帝」を名乗り、日本、清と対等であることを表現した。「日本」と「清」から独立したことを記念して独立門が立てられる。ロシア人建築家サバチンが設計施工。 ※朝鮮に影響を及ぼしていたのはロシアだけではない。 アメリカ、フランス、日本も進出してバランスがとれていたからこそ、独立できた。 |
1898年3月23日 | ロシア撤退 1898年3月15日、ロシアは清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結ぶ。 これにより不凍港が手に入ると、大韓帝国への関心は失われ、全てのロシアの軍事・民事アドバイザーが撤退した。 |
1898年4月25日 | 西・ローゼン協定 外務大臣西徳二郎、駐日ロシア公使ローゼンが東京で会談。 ①ロシアは韓国への日本の非軍事的投資を妨害しない。 ②日本は満州におけるロシアの勢力範囲を認める。 ③ロシアは韓国が日本の勢力範囲になることを認める。 ※これにより朝鮮半島におけるロシアの影響が完全に払拭された。 (1898年時点で朝鮮がロシアの領土になるという脅威はない。ロシアは満州進出に力を入れるようになった。ただ、高宗と政府は日本の支配を望まず、ロシアとの関係を強化したいと考えていた。) |
つまり、下関条約によって大韓帝国が成立したわけではありません。
ロシアだけが朝鮮に進出したわけでもありません。
なお、ロシアは旅順・大連を獲得してからは大韓帝国から撤退しています。
この3点は覚えておきましょう。
【まとめ】
下関条約で朝鮮が独立したわけではない!
大韓帝国成立は1897年。
2年間の間に親露政権が樹立していた。
(旅順・大連を租借したことでロシアが撤退。)