~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑦:1861年」です。

大体的に扱われることは多くありませんが、

この年、ロシアが対馬を占領する「ポサドニック号事件(対馬事件)」が起きました。

イギリスとロシアによる「グレート・ゲーム」は日本にも影響を及ぼしていたのです。

1861年(万延2年/文久元年)

2/3 ポサドニック号事件(対馬事件)(※1)

※ロシア軍艦が対馬を占領。
※ロシアが最も困るのは日本がイギリスの領土になること。ヒュースケン殺害事件によって、日本がイギリスの領土になる可能性が出たため、先手を打って対馬を占領した

※ロシアにとっては、アニワ(樺太)、函館、対馬が生命線。
2/19文久に改元
3/3アメリカ南北戦争勃発

※アメリカは本国が大変なことになったので、対日外交の主導権争いから離脱。
5/15 長州藩、長井雅楽主唱の「航海遠略策」をもって朝廷に入説(※2)

公武合体による開国論孝明天皇も納得
しかし、藩内で久坂玄瑞らが長井排斥へ向かう。
※もっとも明治以降は長井の主張通りのことを行っている。
5/28第1次東禅寺事件

※水戸藩浪士が英国公使館を襲撃。護衛の藩士らの奮戦でオールコックは無傷であったが、書記官のオリファントが負傷して帰国。賠償金が支払われることに。
7/2 長井、「航海遠略策」を幕府老中・久世広周に提出
7/23英国艦隊が対馬到着
8/15ポサドニック号、対馬退去

※イギリスの仲介でロシアは退去したが、イギリスがそのまま居座るリスクも生じていた。
12/11 孝明天皇妹の和宮、江戸城大奥へ。
12 幕府、長州藩に公武周旋を依頼

※朝廷への説得。これには薩摩藩も刺激を受けたに違いない。
(→島津久光の入京への伏線?)

(※1)対馬事件

1861年には、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に停泊し、租借地を要求する対馬占拠事件が起こった。対馬の半植民地化の危機に島民が激しく抵抗し、イギリスの抗議もありロシアは退却した。

「詳説日本史研究」p322
教科書ではこんなあっさりした記述だけど、実際はこんな甘いもんちゃいまっせ。
こちらに詳しく。

…かいつまんで言いますと、まず前年末に起きた「ヒュースケン殺害事件」によって、イギリスは日本占領計画を企画しておりました。

しかし、それをされてしまうと、ロシアは大変。

常に不凍港を求めておりましたロシアは、日本を占領されてしまったら太平洋へのルートが遮断されてしまいます。

そこで、機先を制して対馬を占領した、というわけです。

wikipediaより対馬。交通上の要所。数々の歴史の舞台となる。

当時、日本には「親ロ派」、「親英派」、「親米派」がいましたが、

アメリカは南北戦争でそれどころではなくなってしまったため、

イギリスに仲介を頼むことにしました。

イギリスの仲介でロシア船は去っていきましたが、

イギリスがそのまま居座った可能性もあったのです…

勝海舟
私のおかげだね。

外交の極意は誠意にあり

私のしたことに比べれば、のちの三国干渉なんて朝飯前よ。

 
小栗忠順
あんたはホラが多いんで、
どこまでホントかわからんがな。

結論としましては、英露がお互いを牽制する形で、対馬の占領は解けるとともに、

日本が英露の戦争に巻き込まれることもなくなりました。

ま、実際に日露が戦闘になったヴァージョンが
「日露戦争」ですな。
対馬が外国に渡ったら密貿易ができなくなるから、
長州藩としても他人事ではない。
長州藩(=萩藩)は密貿易を行っていたと考えると、長井雅楽の航海遠略策が一部のその旨味を知るものたちの大反対にあったことは頷けますね。

(※2)維新に先駆け!長井雅楽(ながいうた)

長州藩も、初めは公武合体運動を進めていたが、1862年に中下級藩士の主張する尊攘論を藩論とし、超低内部の尊攘派の公家とも結んで、京都で活発に動いて政局の主導権を握った。

「詳説日本史研究」p324
長井雅楽が提唱した「航海遠略策」は、端的に言うと、「富国強兵」です。

長州藩も一度は長井雅楽の意見を藩論としました。

多少先走って説明しますと、それでは困る尊攘派が勢力を盛り返し、

結果的に長井雅楽は切腹することになるのです。

 
長井殿、この時点では時代の寵児であったのに。

しかも、主張は明治維新政府と一緒。

 
幕府主導でやられたら おもしろくねぇんだよ
翌年、「坂下門外の変」で「航海遠略策派」の老中・安藤信正が攘夷浪士に襲われ、失脚したのも痛かった。
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