こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表㉑:1867年10月」です。
武力倒幕派の機先を制して後藤象二郎が「大政奉還建白書」を提出。
これに対しての慶喜の動きは迅速でした。
「討幕の密勅」を作り上げて、武力倒幕を画策していた、西郷、大久保、岩倉らは、まさしくあてが外れました。
1867年(慶応3年)10月
10/3 | 土佐藩、老中板倉勝静に大政奉還建白書提出 (※1) |
10/6 | 薩摩藩兵、長州藩領三田尻港に到着 ※薩摩の予定が遅れたので、長州藩、広島藩は出兵中止。三藩の足並み乱れる。 ※大村益次郎も薩摩への不信感から慎重論を唱える。 ※大村益次郎は「西郷はいつか新政府に反乱を起こすに違いない」と見抜いている。 大久保利通、品川弥二郎、岩倉具視に幕府との戦争に備えて錦の御旗の使用を提案し、製作を依頼 |
10/8 | 西郷隆盛たち、倒幕の密勅を奏請 ※岩倉具視(まだ蟄居中)の画策 |
10/11 | 慶喜、10万石以上の藩に出仕を依頼 ※「国家大事のため、見込みお尋ねの儀」 |
10/12 | 慶喜、大政奉還の建白を受け入れる旨を土佐藩に伝える ※建白書提出からわずか10日後。 ※ちなみに大政奉還のアイデアは過去にも大久保一翁によって幕議であがっている。 ※慶喜自身も第2次長州征討での敗戦で大政奉還を意識していた。 |
10/13 | 慶喜、二条城で大政奉還の意思表明。 長州藩主毛利敬親・広封父子の官位復旧の宣旨が下る ※40藩が集結 ※薩摩藩にとっては新政府においていかに有利な立場をとれるかに目的が変わる。 薩摩藩に討幕の密勅が下る。(※2) |
10/14 | 慶喜、大政奉還提出。(※1) 長州藩に討幕の密勅が下る。(※2) |
10/15 | 大政奉還、勅許。(※1) ※これにより慶喜の評価は高まる。 ※逆に西郷、大久保へは薩摩藩内からも反発。追い詰められる。 |
10/19 | 西郷ら、密勅を携え鹿児島へ ※この後1ヶ月で大きく状況変化。 ※坂本龍馬は慶喜を強力に支持。 ※薩摩藩伊地知正治も武力討伐には反対を示す。 |
10/21 | 討幕密勅の執行停止を命じる沙汰書が出される。 ※討幕する必然性がなくなったため、名目を失った。 ※関わった公卿たちは大慌てであった。 |
10/22 | 諸大名が上京するまでの外交問題は「両三藩」と申し合わせて処理するよう朝廷より指示 ※三藩に薩摩、土佐が入っているのか?と諸藩は疑念。 |
10/24 | 慶喜、将軍職辞職の上表提出 →朝廷は受け入れず。 |
10/25 | 親藩・譜代諸藩、幕府への政務委任を求める嘆願書を朝廷に提出 ※薩摩の下ではやりたくない。 ※というか、国政を担当したことのない輩に担当できるのか?という問題もある。 (結局、明治維新でも幕臣の多く採用) |
10/26 | 朝廷、諸大名が上京してくるまで、政務の慶喜への委任を指示する (※再委任が浮上。薩摩藩は危機感。) |
(※1)大政奉還!
武力倒幕の機運が高まるなか、公武合体の立場をとる土佐藩では、藩士の後藤象二郎(1838-97)と坂本龍馬がはかって、前藩主の山内豊信(とよしげ)を通して、将軍慶喜に倒幕派の機先を制して政権の奉還を行うよう進言した。
「詳説日本史研究」p326
慶喜もこの策を受け入れて、10月14日、大政奉還を申し出て、翌日、朝廷はこれを受理した。
二条城での慶喜公との面会は緊張した…
汗だくだ…
徳川は武力によって成立した。
これを倒すのは武力しかない!
大政奉還など空名無実だ。
騙されてはいけない!
ま、諸藩も朝廷も国政を運営するノウハウなんてないでしょう~。
結局、私を頼ることになりますよ。
まずい、これで武力倒幕する必要性がなくなってしまった…
え?武力倒幕しなくてもいいのでは?
それに慶喜どのが最初は政局のトップでやった方がいいのでは?
え?
うーん、「討幕の密勅」が無意味になってしまったけど…
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