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☞【幕末年表㉚:1868年7-8月】『八十里 腰抜け武士の 越す峠』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表㉚:1868年7-8月」です。

大激戦となった北越戦争も新政府軍の勝利で終結。

河井継之助は負傷した足を引きずりながら会津へ向かいますが、半ばにして死去。

榎本武揚らは、徳川家達が駿府へ無事に到着したのを確認してから軍艦を率いて江戸を出奔します。

奥羽越列藩同盟の支援に向かいましたが、すでに降伏を決めていたため奮起を促しても効果なく、

さらに北へ向かいます。

なお、7月より江戸は「東京」と改称されました。

1868年(慶応4年)7-8月

7/9 天璋院、仙台藩主伊達慶邦に薩摩藩などの討伐を求める書状を送る

※天璋院(=篤姫)の実家は薩摩だが、薩長の略奪行為に激怒していた。
7/17 江戸を「東京」と改称
7/25河井継之助、長岡城奪還(八丁沖の戦い)

※しかし、河井継之助は足に銃創を負い、のちにこの傷がもとで死亡。
7/29長岡城、再陥落。北越戦争終結

※河井継之助、峠を越えて会津へ向かう。
8/15 徳川家達、駿府に入る

(※家臣1万人以上俸禄なしでもついてくる。)
8/16河井継之助、死去

※足の銃創に菌が入ったことによる敗血症。
8/19 榎本武揚、幕府軍艦8隻を率いて江戸湾を去る

途中で暴風雨にあっていくつか軍艦を失ったのが悲劇
※奥羽越列藩同盟の支援に向かうも、すでに降伏寸前で奮起を促すも効果なし。
8/23 官軍、会津若松城下に攻め入る
8/26 榎本武揚が乗船する開陽丸、石巻港へ

※最終的に蝦夷へ向かう。
天璋院篤姫
いくら薩摩が実家だからとて新政府軍は許せません。

私は徳川に嫁いだので徳川の人間です。

河井継之助どのは足に銃創を負われた…

長岡城を取り返したまでは見事でしたが…

河井継之助

「…八十里 腰抜け武士の 越す峠…」

無念じゃ…。

河井さん、歩いている事自体が奇跡的ですよ。

入院して即手術しないといけないレベルです。

榎本武揚
「奥羽越列藩同盟」とは名ばかり…

私は北へ向かいます。

江戸は「東」の「京」。

東京としましょう。

next:元号は「明治」へ。会津戦争が終結し、明治天皇は江戸城に入ることになります。
ちょっと意外なのが岩村精一郎役に吉岡秀隆というところ。河井継之助を正義、岩村精一郎を悪、と描かれることが多いのですが、岩村精一郎は明治時代は立派な知事となったそうで、小千谷会談も新政府の方針を示しただけ、で、決して悪人ではない、という見方もあります。