~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表㊶:1877年」です。

士族の反乱は「西南戦争」をもって終わりを告げます。

また、「維新の三傑」と呼ばれた木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通が相次いで死亡したことで、

大隈重信、伊藤博文、山県有朋らによる新たな時代に突入します。

1877年(明治10年)年表

1/4地租軽減の詔

※地価の3%→2.5%に
2/15西南戦争勃発(※1)

※西郷隆盛ら、兵を率いて鹿児島出発
※西郷軍4万vs政府軍6万
2/22西郷軍、熊本城を包囲
3/20田原坂の戦い

※政府軍、西郷軍を破る
5木戸孝允、病死
6立志社、国会開設の建白

※却下される
8第1回内国勧業博覧会
9/24西南戦争終結

※西郷隆盛自刃。
12/清王朝公使、何如璋(かしょうしょう)来日(※2)

※琉球の帰属をめぐって
※大久保利通、岩倉具視ら、日清提携論者に対する期待
竹槍でドンと突き出す二分五厘

地租軽減しましたー。

 
木戸孝允
西郷、いい加減にせんかい…

維新のリーダー、桂小五郎こと木戸孝允、45歳没。

(※1)西南戦争

1877年2月、廃藩置県後も明治政府の多くの改革が実行されず、反政府勢力の拠点と目されていた鹿児島において、私学校の生徒を中心とする不平士族らが、明治維新の最大の功労者の一人である西郷隆盛を擁して兵をあげ、ここに西南戦争が始まった

「詳説日本史研究」p348
勝海舟
この戦い、西郷が勝つ。

維新はもう1回やり直しだ!

あんた、どの立場でものを言っているんだ…

初めは勝敗の行方も予断を許さないほどであったが、西郷軍が熊本鎮台の攻略に失敗してから、戦局は政府軍に有利に傾いた

同上
うーん、熊本鎮台との戦いは兵力もこちらが有利。(14,000vs4,000)

さらに参謀長の樺山くんなどはかつての部下だから、

負けるはずない、と思っていたでごわすが…

谷干城
そうはさせませんよ。
児玉源太郎
若き日の私もおりますし。

政府は約6万の兵力を動員し、約8ヶ月近い歳月を費やして、同年9月ようやく内乱を鎮圧し、西郷をはじめとする反乱軍の指導者はいずれも戦死・自殺、または処罰された

同上
晋どん(別府晋介)、もうここらでよか…

介錯たのむ…

西郷の敗北は、新しい徴兵制による軍隊の威力を示し、政府の権力がもはや揺るぎないものであることを明らかにした

同上
新政府軍に負けたのではない、、

熊本城を作った加藤清正公に負けたのだ、、

と負け惜しみ、、、享年49。

大久保利通
まだまだやらねばならないことがあったのですが、私は翌年、暗殺されます。享年47。

(※2)琉球帰属問題

当時、清王朝はピンチでした。

新疆方面ではロシア、ミャンマー方面ではイギリス、インドシナ方面ではフランス、そして琉球、台湾、朝鮮では日本が清王朝の秩序を脅かそうとしていたのです。

琉球は清王朝に朝貢していましたが、日本の領土、、、ですよ。
なにーっ。
沖縄島民の意見が無視されている…

かつて琉球王朝はあれほど栄えていたのに…

17世紀初頭以来、琉球は薩摩藩の支配下にあったが、名目上は清国にも属し朝貢するという両属関係にあった。

明治政府は琉球を日本の領土とする方針を定め、1872年には琉球藩をおき、琉球国王尚泰を藩王として華族に列し、ついで1879年には軍隊をおいて廃藩置県を断行し、沖縄県を設置した(琉球処分)

清国は琉球に対する宗主権を主張してこれに強く抗議し、前アメリカ大統領グラントは宮古・八重山の先島諸島を沖縄から分離して清国領とする調停案(先島文島案)を示したが、清国はこれを認めなかった。

その後も紛争は続いたが、日清戦争における日本の勝利によって、琉球帰属問題は事実上、日本の主張通りに解決した。

「詳説日本史研究」p346
琉球処分後も旧来の土地制度、税制度は温存する政策をとりました。
1853ペリー、浦賀に来航。
1854琉球王朝とアメリカの間で琉米修好条約締結。
1871琉球漂流民殺害事件がおきる。
1872琉球藩設置。外交権接収。
1874台湾出兵。
1875清への朝貢等廃止。
1876内務省出張官吏が裁判官、警察官を兼ねる。司法権接収。
1879琉球処分、沖縄県設置。