~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回、ご紹介するのは「1933年、ヒトラー全権掌握」。

思えば第2次世界大戦は、「ヒトラー率いるドイツと組んだ」ことが最大の敗因だったかも知れません。

しかし、なぜ第1次世界大戦でボロボロになったはずのドイツが再び力を持つことができたのか。

これについてはまたさらなる考察をしたいと思います。

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買ったもののまだ「積ん読」状態。

ちなみに私の本業である「麻酔」の歴史においても、アメリカに留学した医者がアメリカの「全身麻酔」の進歩を目の当たりにしながらも、

アメリカを新興国と見下しており、取り入れようとはしませんでした。

当時、医学の世界でも明治維新期よりお世話になっているドイツこそ「見習うべき」という風潮があったんですね・・・

ちなみに、ルーズヴェルトがアメリカ大統領に就任したのも、ヒトラーとほぼ同時期です。【コチラも

第1次世界大戦後のドイツとヒトラーの歩みを年表にしてみました。

【年表】ヴェルサイユ条約調印(1919年)~ポーランド侵攻(1939年)

1919.6ヴェルサイユ条約調印(※1)
1919.8ヴァイマル憲法成立(※2)
1921.7ヒトラー、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首となる。(※3)
1923.11ヒトラー、ミュンヘン一揆を起こす(※4)
1925.12ロカルノ条約調印(※5)
1929.10世界恐慌(※6)
1930.9ナチスが第二党に。
1932.7ナチスが第一党に。(※7)
1933.1ヒトラー内閣誕生。(※8)
1933.2国会議事堂放火事件。(※9)
1933.3全権委任法成立。(※10)
1933.10国際連盟脱退(※11)
1935.3再軍備宣言(※12)
1936.3ロカルノ条約破棄→ラインラント進駐(※13)
1936.11日独防共協定
1938.3オーストリア併合
1938.9ミュンヘン会談でズデーテン地方併合
1939.3チェコスロバキア解体など
1939.8独ソ不可侵条約
1939.9ポーランド侵攻

(※1)ヴェルサイユ条約

1919年~1923年の間は「ヴェルサイユ条約」の実施をめぐって旧連合国とドイツの間に激しい摩擦が生じた時期でもあります。

ドイツに関する主な規定は以下のものでした。

①ドイツ領土の変更

・・・アルザス・ロレーヌ2州をフランスに割譲ほか。

ドイツは領土の13.5%、人口の10%、鉄鋼の3/4以上、石炭の1/3、耕地の15%を失い、経済にも致命的な打撃を受けました。

②海外領土の処理

・・・海外植民地を全て放棄。日本が赤道以北の南洋諸島を統治することになったのはこれによります。国連の委任を受けるという形式でした。

③軍備制限

…徴兵制廃止、陸軍10万、海軍1.5万を上限とするなど。ライン川岸50kmを「ラインラント」と呼びますが、この地域を非武装と決定しました。

④賠償金

…ヴェルサイユ条約時点では決定しておりませんでしたが、1921年に1320億金マルクで金額が決定しました。

ところが、これは到底履行できないもので、→1924年ドーズ案、→1929年ヤング案を経て358億金マルクの58年払いに決定します。

しかし、世界恐慌勃発でそれも不可能に。

さらに軽減されるも、それも不可能、といった状況でナチ政権誕生で白紙に戻りました。

ナチはヴェルサイユ条約が生み出した、といっても過言ではありません。

苛酷な賠償により、ドイツ人はヴェルサイユ体制の打破を志向します。

(※2)ヴァイマル憲法

ドイツ共産党(スパルタクス団)の社会主義革命を鎮圧した社会民主党を中心とした臨時政府が制定しました。

ヴァイマル憲法は「史上最も民主的な憲法」とも言われております。

内容は、

①国民主権
②20歳以上の男女普通選挙
③国民の直接投票による大統領制(任期7年)
④国会の権限強化
⑤社会政策的条項による労働者の利益の擁護
など

しかし、多数の政党分立を招きやすい制度がナチを生み、

48条で大統領に「非常権限の行使」をみとめたことで、ヒトラーによる独裁を生んでしまいました。

(※3)ヒトラー、ナチス党首に

この頃、ヒトラー34歳。

ナチスはまだ数ある右派政党の1つでした。

ちなみに、ナチスとは「国民社会主義ドイツ労働者党」

昔の教科書では「国家社会主義…」と習っていましたが、現在では変更されております。

(※4)ミュンヘン一揆

賠償金の返済遅延を理由に、フランス・ベルギー連合軍がルール地方に進出して、これを占領してしまいました。

中学地理で習ったでしょうか。
ルール地方は有数の資源地です。

アルザス=ロレーヌはもっと南のフランスに隣接した地域ですので間違いないように。

ルール地方。wikipedia。

これに対してドイツはストライキやサボタージュで対抗しました。

それによりインフレが生じ、大混乱となりました。

事態打開を目指したヒトラーは一揆を起こして軍事政権樹立を試みます。

しかし、失敗して投獄。

その獄中で記したものが「わが闘争」です。

ちなみにこの時期、共産党も革命行動をしていました。

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「ヒトラー 権力掌握への道」、ことのほか勉強になりました。
ミュンヘン一揆では死刑になってもおかしくない状況でしたが、
寛大な処置がとられたことで、ヒトラーは勢いづきます。

(※5)ロカルノ条約

1924年以降、ドイツ経済は復興に向かっておりました。

外交も「協調外交」となり、スイスのロカルノで「ロカルノ条約」が締結されました。

この条約は、独、英、仏、伊、ベルギーの5カ国がドイツの西部国境の現状維持、ラインラントの非武装を共同で保障するというものです。

ドイツはシュトレーゼマン外相、フランスはブリアン外相、イギリスはチェンバレン外相です。

これを受けて、1926年にはドイツの国連加入が認められ、1928年には不戦条約が結ばれました。

(※6)世界恐慌

1924年以降のドイツ経済の繁栄は見せかけに過ぎませんでした。

というのは、アメリカ資本への過度の依存、失業の慢性化、農業不況などの欠陥が隠されていたからです。

賠償問題も解決に向かうと思いきや、1929年の世界恐慌で再び支払い不可能となってしまいました。

1931年、アメリカのフーヴァー大統領は「フーヴァー=モラトリアム」を宣言して賠償支払いを1年停止することを発表し、

つづいて、1932年のローザンヌ会議ではドイツの賠償金は30億金マルクまで減額しました。

しかし、この支払いも実行できないまま、賠償そのものがナチスの台頭により消滅するのです。

(※7)ナチスの台頭

世界恐慌による社会不安を背景に(なんせ失業者は558万人)、ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)と共産党が勢力を伸ばしました。

ナチスは1930年9月の選挙で一気に第二党に躍進し、1932年7月の選挙で社会民主党を凌いで第一党となりました。

ナチスの支持者は農業不況に喘いでいた中小農民、インフレに苦しめられていた都市の中間層でした。

彼らは労働組合にも反感を抱いており、既成のブルジョア政党、労働者政党とも違うタイプのナチスに期待を寄せました。

やがて、共産党の進出に不安を覚えた経営者や軍部もナチスを支援して、勢力を拡げしました。

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共産党との暗闘の歴史が詳しく説明されておりました。
共産党とは「かぶる」のでしょうか?
警察組織を抑えたことでナチは優位に立ちます。

(※8)ヒトラー内閣の誕生

ヒンデンブルク大統領はヒトラーを保守勢力に取り込めると考えて、ヒトラーを首相に指名しました。

当時、まだ連立内閣で、閣僚11人のうちナチスは3人です。

しかし、ヒトラーは一党独裁を目指して突き進みます。

1934年8月にヒンデンブルク大統領が死ぬと、自ら大統領と首相を兼ね、総統と呼ばれるようになりました。

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実際はもっと複雑なようです。
既成政党も十分ヒトラーを警戒しておりました。
民衆もまだヒトラーの恐ろしさに気付いておりません。

(※9)国会議事堂放火事件

「国会議事堂放火事件」を共産党員のせいとして、彼らを逮捕します。

ヒトラーは共産党を終生の敵としています。【独ソ戦はコチラ

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共産党が暴動をおこして、ナチの突撃隊がそれを守る、という構図を常に描いておりました。
もっとも、200万人に膨れ上がった突撃隊は国軍により粛清されてしまうのですが。

(※10)全権委任法成立

共産党員を逮捕しても45%の議席数でした。

そのため、今度は逮捕された共産党議員やその他の議員を投票に参加しないものとして議席をカウントしないこととして、

さらに国家人民党、中央党の協力を得て、1933年3月の選挙でようやく過半数を得ました。

そして、「全権委任法」成立です。

これにより、ナチス以外の政党は禁止され、強力な中央集権国家成立を実現しました。

日本にも「大政翼賛会」(1940年~)というのがありますね。

でも、これ「独裁」などとは程遠いものでした。【コチラも

(※11)国際連盟脱退

日本に遅れること7ヶ月、ドイツも国際連盟を脱退しました。

理由は軍備平等権が認められないからです。

ナチスは公共事業、軍需工業拡大によって失業の克服に成功し、また、人気を得るために福祉・レジャーにも力を入れました。

反面、秘密警察(ゲシュタポ)を駆使して反対者を強制収容所に送り込みました。ユダヤ人などの迫害も加えました。

(※12)再軍備宣言

現在ではこれは「ヴェルサイユ条約」の「軍備制限条項」の「死文化」と考えられております。

なぜなら、まだ完全な「破棄」には至っていないからです。

翌年のラインラント進駐で、さらに「破壊を進めた」という感じでしょうか。

この時期、英仏伊はオーストリアの独立保全を確認したストレーザ戦線を結成したが、イギリスがいち早くドイツと海軍協定を締結するなどで足並みが揃わなかった。

フランス
イギリスさ~ん!

これ、放っておくとヤバイ気がしまーす!

(※13)ラインラント進駐

ロカルノ条約を破棄してのラインラント進駐は、ヒトラーにとって大きな賭けでした。

英仏の排撃を懸念していましたが、平和ムードのイギリスはフランスの軍事的制裁案を破棄。

ドイツは制裁を免れました。

これでドイツは戦略的地位を一気に有利にしました。

その後、スペイン戦争にも介入。ともにフランコ側で戦ったドイツとイタリアは急接近。のちの三国防共協定(日独伊)へ向かいます。

ベルリン五輪も行ないました。

ヒトラー及びその支持者の目標は、「ヴェルサイユ=ロカルノ体制」の破棄、ってこと。

【まとめ】

第1次世界大戦での過酷な賠償金が求められている状況に、世界恐慌が襲い掛かることでドイツは大打撃を受けた。

このような状況で支持を集めていたのがナチと共産党。

共産党を脅威に思う人々はナチを支持。(ナチの宣伝効果もある。)

第1党となったヒトラーは首相に任命されると(この時点ではまだ取り込めると思われていた)国会議事堂放火事件(1933.2)を利用して共産党を弾圧、

そして、全権委任法(1933.3)で一党独裁政権を敷く。

コチラも(↓)。