~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「1944年1月~4月」です。

3月から「援蒋ルート」遮断を目指して「インパール作戦」

4月からは「本土空襲」を回避すべく中国大陸で「大陸打通作戦」が行われました。

しかし太平洋戦線ではトラック島が壊滅的な打撃を受け、マリアナへの攻撃が始まっておりました。

(マリアナが失われると本土空襲は容易となります。)

首相・陸相・参謀本部総長を兼ねることになった東条英機はマリアナの防備には自信を持っていたようですが…

以下、「総力戦のなかの日本政治」などを参考にさせて頂きました。(wikipediaも参考にさせて頂いております。)

【前回まではコチラ】

【年表】1944年1月~4月

1944アジア太平洋その他
1月大陸打通作戦命令
・中国戦線
服部卓四郎立案

参謀本部、インパール作戦命令
・現地の牟田口廉也司令官の強い主張
2月ルオット、クエゼリン島日本軍全滅(2~5日)

米機動部隊、トラック島空襲(17~18日)(※2)
・ニミッツ率いる
・航空機・艦艇がほぼ全滅
・つづいてマリアナ諸島が空襲
東条英機、陸相と参謀総長兼任(21日)
・嶋田繁太郎も海相と軍令部総長兼任
3月インパール作戦開始(3/8~7/3)(※3)
・チャンドラ・ボース(インド国民軍)参戦
米機動部隊、パラオ空襲(30~31日)
海軍乙事件(機密文書紛失)
4月大陸打通作戦開始(4/17~12/10)(※4)
・畑俊六、岡村寧次ら率いる
米軍、西部ニューギニア上陸
・マッカーサー率いる

(※1)東条への権力集中

2月、東条は首相・陸相に加え参謀総長を兼任します。

(陸軍には陸軍省と参謀本部があり、それぞれ役割が違いました。【人事はコチラ】

※海軍は海軍省と軍令部。

これにより東条は強力な戦争指導権限を持つことになります。

海軍は東条に近いとされる嶋田繁太郎が海相と軍令部総長を兼任することになりました。

それでも陸海軍が一元的な作戦を展開することにはつながらなかった、と言われております。

首相という立場で海軍にも相応の予算を組まないといけない。

しかし、それをすると陸軍から不満が。

その繰り返しです。

「セクショナリズム」(つまり縦割り行政というか)が敗因と言われるのはこうしたところから来ております。

そのうえ、このような東条の行動は反発も生み、暗殺計画も出ました。

もっとも7月に辞任したため実行されず。

(※2)絶対国防圏が破られる

1943年9月、御前会議で「絶対国防圏」が設定されました。

絶対確保すべき要域として、千島、小笠原、内南洋、西部ニューギニア、スンダ列島(スマトラ、ジャワなど)、ビルマが設定されたのです。

しかし、2月にカロリン諸島のトラック島が攻撃を受け、そして4月には西部ニューギニアへの侵攻を許し、絶対国防圏が破られてしまいました

その後、マリアナ諸島(トラック島より日本寄り)への空襲が始まります。

マリアナ諸島が失われてしまうと、本土空襲が容易になってしまうので、戦略的にも非常に重要な地域です。

また、トラック島の損害により、ラバウル基地(カロリン諸島より南)が孤立してしまいました。

(※3)インパール作戦

「史上最悪の作戦」とも言われます。

第15軍の牟田口廉也司令官は連合軍の反攻を阻止するため、ビルマ、インドの境にあって連合軍の拠点となるだろうインパールを攻略し、さらにはインド内に入りアッサム州に進攻する計画を立案しておりました。

反論も多かったのですが、人事異動によってビルマ方面に詳しい人が減ってしまったこと、反対者が左遷されたことで、この計画が通ってしまいました。

(なお、牟田口廉也に問題はあるとして、これを認めた参謀本部も問題があると考えられます。自分の失敗を認めた点が牟田口廉也の潔い点ですが。)

それでも日本軍は苛烈に戦いました。

ただ鍛錬に鍛錬を重ねた精鋭部隊が無謀な作戦により餓死してしまったり、自爆覚悟で相手に向かっていった姿を想像しますと心が痛みます。

(かなりのハンデがあったと思われますが、英軍にとって決して楽な相手では有りませんでした。)

https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/special/vol6.html

インパール作戦とは直接関係有りませんが、「ビルマの竪琴」は小学校の授業で観ました。中井貴一が若い!

(追記)「満州国建国の真実」より(イギリス人駐在武官が筆者に問いたという)

「イギリス軍がグルカ兵を先頭に、敗走する日本軍を追って行くと、突如、頭上から一発の銃声が響き、イギリス人中隊長が絶命している。樹上に日本兵を発見して軽機関銃を乱射して確認すると、樹上の日本兵は自分の身体を大樹に縛り付けて固定し、銃弾一発を放ってイギリス人中隊長を倒し日本兵の敗走を援護したうえ、蜂の巣のようになって死んでいる。にの日本兵は予備の銃弾を持っていないので、一発必中を期したものと判定された。日本人のこのメンタリティーはどこから来るのか?」

p180 あとがき

こうした事例をみますと、インパール作戦を単なる牟田口中将の作戦ミス、と片付けてしまうのはもったいないな、と思う次第です。

(※4)大陸打通作戦

前年11月、米軍が中国本土から台湾に向けて空襲を行いました。

これに危機を募らせた大本営は南西中国にある「空軍基地の破壊」と、「中国大陸縦貫鉄道敷設の必要性」を認識しました。

(縦貫鉄道は朝鮮、満州、中国、仏印をつなぐことを最終目標としました。)

結論から言いますと、「空軍基地の破壊」という点ではのちの「マリアナ陥落」により意味をなさなくなってしまいました。

マリアナ諸島(サイパン)から本土空襲が行われることが可能になったためです。

「鉄道敷設」という点では線を結んだところでゲリラ活動の被害という問題は解消できませんでした。

(…このパターン、前もあったような…)

また、「航空基地破壊」が目的なのか、「鉄道敷設」が目的なのかも不明確となった点も問題でした。

(…このパターンも、前にもあったような…)

東条英機は航空基地破壊を優先して欲を出さないように伝えておりましたが、作戦課長の服部卓四郎は鉄道敷設も重要視しました。

そもそも攻撃対象は首都・重慶に絞った方が良いのでは、という意見もありました。

しかし、この「大陸打通作戦」の成果もあります。

それは、米軍が蒋介石の信用を失った点。

あまりにも国民党軍がやる気がない(蒋介石は共産党こそ本当の敵と考えていました)し、弱いので、米軍スティルウェル将軍は悩みます。

前年には「カイロ会談」に呼ばれるなどルーズベルトは蒋介石を評価しておりましたが、現地の考えは全く別でした。

(指揮官をスティルウェルに変更する提案のほか、「蒋介石暗殺計画」までありました。)

そのため、1945年2月のヤルタ会談には呼ばれませんでした。【コチラも】

(怒った蒋介石は独断での日中和平工作まで考えました。)

※1944年10月のオークス・ダンバートン会議に中国は呼ばれておりますので、国際会議に「全く」呼ばれなかったわけではありません。ちなみに蒋介石を暗殺したとしたら孫文の息子を後継に考えておりました。

【wiki】

まとめ

【1944年】

2月:トラック島壊滅でマリアナ諸島まで攻撃の手が及ぶ。国内では東条英機へ権力集中。
3月:インパール作戦開始(~7月)
4月:大陸打通作戦開始(~12月)
本土空襲を避けるべく空軍基地破壊を行ったが、太平洋戦線でマリアナ陥落したことにより本土空襲は不可避となった。

つづきはコチラ。