~只今、全面改訂中~

☞【なぜポルトガルは日本へ来たか?】『バテレンの世紀』(渡辺京二、2017年、新潮社)

こんにちは。

本日ご紹介しますのは、「バテレンの世紀」、第3章「日本発見」です。

そもそも、なぜ、ポルトガル人が日本に来たのでしょうか

前章【コチラ】でポルトガルが大航海時代をはじめた理由は「よくわかっていない」ということをご紹介しました。

そして、「日本に」来た理由は、当時の「海賊」について知る必要があります。

決してマルコ・ポーロの「東方見聞録」を読んで、日本を目指してやってきたわけではありません。

以下、読書メモです。

【明の海禁政策】

1350年頃より続く「前期倭寇」の影響で明(1368年建国)は海禁政策を行ないました。

しかし、これに中国人全員が従ったわけではありません。

密貿易を行なっていた中国海商は、やがてポルトガル人を味方に引き入れて寧波の対岸の島(双嶼)に拠点を置きました(1540年)

(寧波といえば、日本と中国の外交の拠点ですね。ちなみに「寧波の乱」【コチラ】から20年も経っておりません。)

※ポルトガル人はそれまで拠点を持たず外洋を「うろうろ」していました。

寧波と日本は海流的にも「近い」ため、ここに来たということは、日本に漂着するのも時間の問題だったようです。

東南アジアで猛威を振るっていたポルトガル人も広州では明軍によって追い返されていました

 

もしここで追い返されずに広州あたりを「うろうろ」していれば、1543年の鉄砲伝来もなかったでしょう

カリカットから中国までは16年で到達しているのに、広州に到達してから日本に来るまで20年以上も経過していることを考えると、彼らの眼中に日本はなかったのだと思われます。

 

日本銀の存在も中国人から聞いて初めて知ります。

【後期倭寇とポルトガル人の関連】

密貿易を行なっていた中国海商は、のち、「後期倭寇」とも呼ばれます。

その構成員の9割は中国人と言われますが、日本人もその武力を買われて参加していました。

そして種子島へ漂着したこの船には、のちに後期倭寇の頭目となる王直も乗っていました。

(彼は五島列島に本拠地を置く。)

見落とされがちですが、ポルトガル人はポルトガル船で日本に来たのではなく、中国船で日本に来たのです。

これもそれも寧波の乱(1523)が大きいと思うんですけどね。この件で、正式な勘合貿易が一時的にですが完全に途絶するんです。

そして、後期倭寇も、ポルトガル人も交易の目的は「日本銀」と「中国絹」の交換でした。

ちなみに、1533年、神谷寿禎が灰吹法導入で銀の大増産に成功しました。

【後期倭寇とポルトガル人の離反】

中国で仕入れた絹は、その4倍の値で日本で売れたのです。

さらに、そこで得た日本銀は、その金銀比率から中国では、さらに儲けを得ることができたのです。

しかし、のち、ポルトガル人は中国政府と関係を深める過程で、後期倭寇と手を切ります。

【ザビエル来航(1549年)】

このような状況下でザビエルの来日がありました。

彼はインドでの布教より、日本での布教に可能性を見出していたところでした。

インドには望みがアリマセーン。
日本人のアンジロー、スゴイ優秀デス。
日本に行きマース。
 
 
ポルトガル人は当初、明との交易を望んだ。
 
しかし、追い返されて外洋を「うろうろ」していたところ、海禁政策に不満を持つ中国海商と手を結んだ。
 
その中の一船が偶然、種子島に漂着した。
 
彼らの交易のメインは「日本銀」と「中国絹」の交換。

(ただし、間もなく両者は離反。)

一方、1549年、インドでの布教に活路を見出せなかったザビエルは日本へ。

 
 
ザビエルさんは、2年ちょいで離日してしまいますね。
 
後任のトルレスさんが、頑張ったよ。

あと日本人のロレンソと、医者のアルメイダ。【コチラも