こんにちは。
本日ご紹介しますのは、「バテレンの世紀」、第3章「日本発見」です。
そもそも、なぜ、ポルトガル人が日本に来たのでしょうか。
前章【コチラ】でポルトガルが大航海時代をはじめた理由は「よくわかっていない」ということをご紹介しました。
そして、「日本に」来た理由は、当時の「海賊」について知る必要があります。
決してマルコ・ポーロの「東方見聞録」を読んで、日本を目指してやってきたわけではありません。
以下、読書メモです。
【明の海禁政策】
1350年頃より続く「前期倭寇」の影響で明(1368年建国)は海禁政策を行ないました。
しかし、これに中国人全員が従ったわけではありません。
密貿易を行なっていた中国海商は、やがてポルトガル人を味方に引き入れて寧波の対岸の島(双嶼)に拠点を置きました(1540年)。
(寧波といえば、日本と中国の外交の拠点ですね。ちなみに「寧波の乱」【コチラも】から20年も経っておりません。)
※ポルトガル人はそれまで拠点を持たず外洋を「うろうろ」していました。
寧波と日本は海流的にも「近い」ため、ここに来たということは、日本に漂着するのも時間の問題だったようです。
もしここで追い返されずに広州あたりを「うろうろ」していれば、1543年の鉄砲伝来もなかったでしょう。
日本銀の存在も中国人から聞いて初めて知ります。
【後期倭寇とポルトガル人の関連】
密貿易を行なっていた中国海商は、のち、「後期倭寇」とも呼ばれます。
その構成員の9割は中国人と言われますが、日本人もその武力を買われて参加していました。
そして種子島へ漂着したこの船には、のちに後期倭寇の頭目となる王直も乗っていました。
(彼は五島列島に本拠地を置く。)
見落とされがちですが、ポルトガル人はポルトガル船で日本に来たのではなく、中国船で日本に来たのです。
そして、後期倭寇も、ポルトガル人も交易の目的は「日本銀」と「中国絹」の交換でした。
【後期倭寇とポルトガル人の離反】
中国で仕入れた絹は、その4倍の値で日本で売れたのです。
さらに、そこで得た日本銀は、その金銀比率から中国では、さらに儲けを得ることができたのです。
しかし、のち、ポルトガル人は中国政府と関係を深める過程で、後期倭寇と手を切ります。
【ザビエル来航(1549年)】
このような状況下でザビエルの来日がありました。
彼はインドでの布教より、日本での布教に可能性を見出していたところでした。
日本人のアンジロー、スゴイ優秀デス。
日本に行きマース。
しかし、追い返されて外洋を「うろうろ」していたところ、海禁政策に不満を持つ中国海商と手を結んだ。
その中の一船が偶然、種子島に漂着した。
彼らの交易のメインは「日本銀」と「中国絹」の交換。
(ただし、間もなく両者は離反。)
一方、1549年、インドでの布教に活路を見出せなかったザビエルは日本へ。