こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「真珠湾攻撃の功罪」についてです。
以下、「データで見る太平洋戦争」(高橋昌紀、2017年、毎日新聞出版社)の第3章「真珠湾攻撃は米国を砕いたのか?国力1/4、日本の大ばくち」を参考にさせて頂きました。
【第3章 まとめ】
★対米開戦は避けるべきと言うデータはいくつも挙がっていた。
★しかし、「ハル・ノート」を突きつけられて、「このままでは日本はジリ貧になって戦わずして降伏せざるを得ない」という恐怖が対米戦争に駆り立てた。
★結論からすると、真珠湾攻撃により米国民は1つに。「ソ連崩壊→米国が日独に挟まれる」という最悪のシナリオを恐れていたルーズベルトも世論を得た。
★もし、独ソ戦のモスクワ攻防戦の結果を知っていたなら、「待つ」という選択肢もあったはずだ。
★さらに、イギリスの東南アジア植民地のみを攻撃していたら、米国は参戦できなかったかも知れない。
★真珠湾攻撃をして相手に打撃を与えれば有利な条件で早期講和できるであろう、という山本五十六の考えは独善的であったといわざるを得ない。(山本五十六はこの案が受け入れられなければ辞めると軍令部を脅していた)
★真珠湾攻撃などせずに、最初のプラン通り「艦隊決戦」に持ち込んだ方が良かったかも知れない。
独善
★1941年12月8日、真珠湾攻撃。日本は「短期決戦による早期講和」を独善的に夢想していた。
しかし、アメリカは早期講和どころか、「卑怯なだまし討ち」として、憤激した世論を背景に戦時体制に速やかに移行する。
そもそも総力戦を行えるほどの国力があったのか
★戦力物資を海外に依存する日本の国力は頼りないもので、実質国内総生産(GDP)はアメリカの22%、イギリスの63%であった。特に重工業の差は歴然としており、鉄の生産力はアメリカの11%程度であった。
★アメリカの分析によれば、「日本の軍事工業は比較的小さく、新しく建設されたものであるから余力がない。日本は本質的には小国で、輸入原料に依存する国。」であった。
★また、貿易相手は米英蘭がほとんどであり、軍事物資に必要な原料はほぼ彼らから輸入していた。
★経済学者である名和統一大阪商科大学教授は、「英米との衝突は悲観的」と忠告、「大陸政策強化のために軍事工業を拡充しようと思えば思うほど、世界市場への依存度は増大する」と喝破していた。実際、中国や満州などは輸出超過で、そこから必要物資を輸入するというほど確立もされていなかった。
石油危機は深刻
★1939年7月の「日米通商航海条約」破棄は日本経済に深刻な打撃を与えた。
特に困ったのは石油であり、そのため、1941年5月、海軍は「4、5か月以内に南方武力行使を行わなければ戦争が遂行できなくなる」という結論を出し、オランダ領ボルネオの油田地帯に狙いを定める。
1941年7月、南部仏印進駐し、ここを足掛かりとしようとしたが、8月に早くも米国から石油の全面禁輸を受ける。
海上交通の破壊
★太平洋戦争開始後は、原油の輸入(いわゆる還送)は増加。
ここで、米国は日本本土と海外拠点を結ぶシーレーンの破壊を軍事戦略の最優先事項に設定。
一方、日本は艦隊決戦主義もあって、海上護衛を軽視。そのため日本商船は多数の被害を受けた。
近代戦争で最も大事なのは「戦争継続能力」
そもそも野戦で勝利すれば戦争に勝利できるという考えはナポレオンの時代で終わった。
近代戦争では国力に基づく戦争継続能力が勝敗を決する。
第1次世界大戦でドイツが降伏したのは、
①連合国の経済封鎖、
②スペインかぜの流行、
③革命にまで至った厭戦気分の蔓延、
+アメリカの参戦
であり、戦場での敗北は直接的には関係ない。
秋丸機関の結論→国策に反する?
★1940年2月ごろ、陸軍の秋丸治朗主計中佐のグループは
①日本の生産力がこれ以上上がる可能性はない、
②ドイツの戦力は今が峠、
③米国の戦争経済の構造には欠陥がない、
という報告を出しました。
しかし、統帥部トップの杉山元は
「その結論は国策に反する。ただちに焼却せよ」(!)
とした。
★他にも、陸軍中野学校を設立した岩畔豪雄大佐は在米日本大使館に赴任して非公式に日米交渉。1941年8月には政財界の有力者に「総合戦力は10対1、大和魂をふるっても日本は勝てない」と、対米戦の危険を説いたが、東条英機によりカンボジアに転属させられてしまう。
★また、「総力戦研究所」では若手らが模擬内閣を組閣し、石油獲得に南進した場合の国家レベルの影響をシミュレーションを行った。
その結果、対米関係は悪化するが、国力的に開戦は「不可能」。
それでも開戦に踏み切れば、シーレーン崩壊、長期戦で石油備蓄消耗、中南米諸国と国交断絶、米ソ接近し、対ソ関係は悪化、結果的に総辞職をせざるを得ない
という結論を出した。
ここで東条英機は
「日露戦争で勝てるとは思わなかった。戦と言うものは計画通りにはいかない。この机上演習は軽はずみに口外するな」
と言ったと言う。
★真珠湾攻撃について、ピュリツァー賞作家で歴史家のバーバラ・タックマンは
「日本人は米国民を1つとなし、国を挙げて戦争にかりたてうるたった1つのことをした。」
と述べた。
英蘭仏への植民地攻撃であれば米国を戦争に引き込むことはなかったのだ。かくして、日本は世界の孤児となる。
★真珠湾攻撃の知らせを受けたチャーチルは、
「これでわれわれは戦争に勝った。ヒットラーの運命は定まった。満身これ感激と興奮と言う状態で床につき、救われて感謝に満ちた者の眠りを眠った」
と残している。
♨それを止めようとした意見が多数あったにも関わらず、真珠湾攻撃を選択したというのはどれほど愚かな選択であったことか。これについては、「スパイ誘導論」など様々な意見があるが、心理学的要素、国民的気質なども含めて考えなければいけないのかな、と思う。いずれにしても、「自分の都合しか考えていない」というのが問題であろう。
※【太平洋戦争の新常識】においては、
「日本はこのままではジリ貧となり戦うことすらできなくなる。高い確率でアメリカに負けるとしても独ソ戦が短期間でドイツが勝ち、日本が東南アジアを占領し、アメリカの戦争準備が整わないうちにイギリスが屈服すればアメリカも講和に走るかも知れない」
という見立てであり、特別愚かな選択ではなかったと日米開戦擁護している。このあたりは評価が非常に分かれるであろう。
<インタビュー・五百旗頭真(元防衛大校長)>
日米開戦ー政治の未熟が招いた真珠湾
★真珠湾攻撃に踏み切った時期は、ドイツがモスクワ攻略に失敗した直後であった。もしもその情報が伝わっていたとすれば、日本は「参戦しない」というオプション(「スペイン・オプション」…内戦で独伊の援助を受けたが参戦見送る)を選択できたはずだ。参戦していない強国がいれば、両陣営が日本を味方にしたがるため、日本は有利な立場になっていたはずだ。
★1941年11月26日、ハル・ノートを日本政府は最後通牒と判断したが、吉田茂は東郷茂徳外相に「あれは言い値だ、これをたたき台にすればむしろ交渉を継続できる、あなたが外相を辞任して政変を起こせば、対米開戦の機会は失われる、そうしないと国が亡びる」と意見具申。
東郷は良く頑張っていたが、「後任には軍国主義者が選ばれるかもしれない」という広田弘毅の助言を得て、辞任を思いとどまる。
★1941年7月の南部仏印進駐を聞いた幣原喜重郎は、首相の近衛文麿に「今すぐ天皇陛下にお願いして取り消しせよとの命令を出してもらえ!」と忠告するも、「今さらできない」との返答。
★「ABCD包囲陣」という名前は見当違いも甚だしい。中国には軍事的侵略を繰り返していたのだ。
★山本五十六は緒戦で圧勝したら早期講和が実現できると考えていたのかも知れないが、こういう唯我独尊の軍人を作り出さないように防衛大では「広い視野、科学的思考、豊かな人間性」を培う努力をしてきた。