こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「日米開戦をめぐる陸軍内の暗闘」についてです。
武藤と田中の「ソリ」が合わなくなったのはドイツ駐留時代のヒトラーへの思い入れの違い、があるとも考えられます。
以下、「昭和陸軍の軌跡」第9章「日米交渉と対米開戦」の読書メモを中心に書かせていただきます。
1.交渉継続か開戦決意か
1941年10月16日(近衛文麿辞職)まで。
武藤章 | 対米交渉に全力。 田中との間で板挟み。 |
田中新一 | 対米交渉をする動き(武藤、近衛ら)に反対。 三国同盟を弱める動き(武藤、近衛)にも反対。 対米戦は長期戦になると判断。 戦争準備を進めるが、要求が通れば回避も。 |
近衛文麿 | 対米戦争回避に向けて動く。 しかし、アメリカの条件を聞いて途中から腰砕け。 10月16日に総辞職。 |
東条英機陸相 | 交渉継続希望。 |
及川古志郎海相 | 対米勝利の自信はなかったが、はっきりと「できない」と言えず。 田中と対立。 |
ルーズヴェルト | 大西洋憲章。(withチャーチル) 中国撤兵問題、三国同盟問題、通商無差別原則の問題を突きつける。 対独参戦により即時日米開戦となることを危惧しており、三国同盟に警戒していた。 (実際は、三国同盟にそこまでの縛りはなかった。) |
※同胞の死を無駄にしたくないという思いは抱いていたであろうが、武藤も近衛も東条も「中国撤兵」を考慮に入れていた。
日米開戦前、日本全体が対米戦に積極的だったわけではない。
最後まで交渉を行っていた。
2.東条内閣の成立と日米開戦への道
武藤章 | 戦争決意のもと、交渉も継続。中国撤兵もやむなし。 東条を説得した。 |
田中新一 | 開戦決意。 |
東条英機 | 戦争決意のもと、交渉も継続。 |
東郷茂徳外相 | イギリスの盛り返しを見て、いずれイギリスがドイツより優位になるであろうとの判断。(しかし、外務省のこの意見は重視されず。) 外交努力主張し、激論。 |
嶋田繁太郎海相 | できるだけ戦争は避けたいが、ここまで来た以上、国民を納得させる大義名分が必要であろう、との見解。(戦争決意。) 沢本次官らは嶋田に猛反対したが、「自分の判断で戦争時期を逸したと有れば申し訳ない」として沢本らを押し切る。 (ここではじめて海軍省が開戦容認に転換。) |
永野修身海軍軍令部 | すでに開戦決意。 |
イギリス | 対日参戦が死活問題。 |
中国 | いったん南進前まで戻すと言う、幣原元外相作成の「乙案」に対しては、士気が衰えるとして蒋介石が反対。 |
アメリカ | ハル・ノート提示。 |
嶋田繁太郎海相時代に、海軍は初めて「対米開戦容認」に転じる。
東郷茂徳外相はドイツに対してイギリスが盛り返しているとの判断から対米開戦に反対するが、受け入れられず。
3.武藤・田中の世界戦略と戦争指導方針
武藤章 | 田中新一 | |
大東亜共栄圏について | 次期大戦に対応すべく国防国家を建設。 そのためにも自給自足経済体制の樹立をめざし、南方の資源獲得、大東亜生存圏を形成。 欧州大戦を好機とみて仏印進駐。 しかし、対米戦回避のためには全面的建設断念せざるを得ないと判断。 仏印・タイへの影響力は維持。 | 大東亜共栄圏に関しては武藤と同じ。 対米関係が異なる。 |
対米 | 対英戦不可避もアメリカの軍事介入警戒。 しかし、アメリカはアジアに死活的利害をもっていないので妥協点はあると判断。 | 対米戦不可避。アメリカの介入を予測。 アメリカは軍備拡張政策をとっており、早期に攻撃を加えて太平洋の覇権を確立して対抗すべき。 |
三国同盟 | 対英という観点から独伊との連携、ソ連との国交調整は歓迎。 ソ連らの重慶政府援助も抑えようと考えた。 日米戦回避にもつながると考えた。 | 将来的にいつか起こるであろう対米戦を前提。 対米戦回避のために三国同盟を弱めるなどもってのほか。 三国同盟によりイギリスを屈服させるのが狙い。 |
独ソ戦について | 対英戦途中での対ソ武力行使に反対。 独ソ戦は長期化予想。 そのため近いうちのイギリスの崩壊可能性は低いと判断。 対ソ開戦してもソ連は容易に崩壊せず、逆に日本は南方展開が不可能になると判断。 ヒトラーも気が狂っているので距離感を置くべき。 | 短期間でのドイツ勝利を予想。 長期化すればソ連を挟撃すべきとして武力行使主張。 それがイギリスの対独交戦意志を粉砕することになると考える。 独ソ戦は北方の脅威を除く絶好の機会と判断。 |
ドイツ駐留経験 | 1923年から3年間駐留。 ワイマール共和国が安定に向かう時代で、ヒトラーはミュンヘン一揆失敗などがあり、「ヒトラーは狂気」という評判も聞いていたであろう。 帰国前に2か月間アメリカを視察し、その文明に衝撃。 | 1933年から1年半駐留。ナチスが圧倒的な支持を受けていた時代。 |
※アメリカは三国同盟の空文化を求める。
※ハル・ノートにより武藤は交渉継続不能と判断。
※武藤が対米戦回避と言いながらも、なかなか中国撤兵に踏み切らなかったのは永田鉄山の影響?
※アメリカはアジアに死活的利害をもたない、という永田以来の発想はある意味正しいが、独英戦争により、「死活的利害」が生じるようになったのだ。
※田中はアメリカの対独参戦は不可避と考えていたがドイツもアメリカの参戦を回避すべく、アメリカの挑発に乗らなかった。
※先制奇襲攻撃で米艦隊に大打撃を与えて、その後、反撃してくる米海軍を各個撃破し持久戦に持ち込むと言う作戦はミッドウェーの惨敗により前提そのものが崩壊して対米戦略は崩壊していく。
武藤と田中はともにドイツ駐留経験がある。
しかし、武藤はワイマール共和国時代でありヒトラーに懐疑的な思いを抱いている一方、田中はナチス躍進期であった。
ヒトラーへの思いがそれぞれ違うことが、意見の相違の一因かも知れない。
武藤がなかなか中国撤兵に踏み切ることができなかったのは、永田鉄山の影響があったのかも知れない。(後継者を自認)
エピローグ:太平洋戦争ー落日の昭和陸軍
★真珠湾攻撃の1時間前、英領マレー半島に奇襲上陸。
★その後も快進撃は続く。陸軍は戦略的守勢に転じ、防備強化と資源開発を主張も、海軍は早期決戦、早期講和論に傾斜。
★4月、東条の逆鱗に触れ武藤罷免。(より広い国民層の支持を得る内閣を考えていた。)
★しかし、ミッドウェー海戦での敗北でいずれの論も不可能に。
★独ソ戦ではスターリングラードの戦でソ連の敗北はなくなり、ソ連打倒→イギリス打倒はなくなる。
★田中新一が結節点と考えたガダルカナル島攻防戦も、東条に受け入れられず撤退。(12月)田中新一罷免。
★武藤、田中にかわって新たな戦略を構想できる有力な幕僚は現れず、以後、東条はこれまでの構想に従って場当たり的な対処に終始。
★1943年9月、イタリア降伏。日本はドイツの目をイギリスに向けさせようと独ソ調停を試みるが、独ソともに拒否される。
★1944年、絶対国防圏のサイパン陥落。これにより日本はアメリカの長距離爆撃機の空爆範囲内に。本土空襲開始。東条内閣総辞職に追い込まれる。すでに日本の勝ち目はなく、非統制派などは講和の道を探っていたが、陸軍主流の統制派は継続方針を変えなかった。太平洋戦争中の日本人兵士戦死者230万、民間人死者50万人のほとんどはこのサイパン陥落以後に犠牲となったのである。
★その後、沖縄戦、ドイツ降伏、原爆投下、ソ連の対日参戦を経て、1945年8月14日、御前会議にてポツダム宣言受諾を決定。
太平洋戦争初期は快進撃を見せたが、徐々に国力の差が明らかに。ミッドウェー海戦での惨敗で、日本の戦略プランは成立しなくなった。
武藤も田中も、東条との折り合いが悪くなり中央からは失脚。
独ソ戦を辞めるように独ソ双方に調停を申し出るも両者とも拒否。すでにソ連の負けはなくなっており、ソ連を倒してからイギリスを倒す、というドイツのプランは不成立。
日本は戦略プランの見直しができなかった。
戦死者のうち、最後の1年間で死んだものがほとんどである。
(♨「東条英機はミッドウェーの敗戦を知らなかった?」→【証言】)
あとがき
★昭和の政党政治は脆弱なもので、政党政治崩壊後は、軍部が明確な国家構想をもたないままテロと恫喝で権力を掌握したと考えられがちであるが、近年の研究では政党政治はかなり強固なもので安定性を誇っていたことが証明されてきた。それに対抗できたのは永田鉄山を中心とする一夕会が周到な準備と構想があったからだ。
★また、陸軍は戦争終結の見通しのないまま対米戦争に突入したと考えられがちであるが、田中や武藤は戦争終結方針を考え、東条もそれを了承していた。
★日米戦争は中国市場をめぐるものとも思われがちであるが、それは正確ではない。日中戦争の解決が困難で、南方進出したのでもなく、別の要因によるものであったのだ。(世界史的な理解が必要。イギリス、ソ連敗退がアメリカにとって最悪のシナリオ。)
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