~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「1051年、前九年合戦」です。

かつては「前九年の役」、「後三年の役」と呼ばれていましたが、「役」という言葉は異民族、他国との戦いに用いられる場合が多く、安倍氏や清原氏を蝦夷として蔑視することにつながるとの指摘から、近年では「合戦」という言葉が使われるようになったそうです。

しかし、それ以上に問題なのは、「前九年合戦」はホントは「12年」にも及んでいたという点です・・・

以下、『古代史講義戦乱篇』(拓殖大学国際学部、戸川点先生)を参考にさせて頂きました。

小学生レベルの算数ができない?

「前九年合戦」は1051年~1062年の「12年間」、「後三年合戦」は1083年~1087年までの「5年間」を言います。

それなのに、なんで「前九年」「後三年」となってしまったのかは、諸説あるそうです。

今のところ有力な説は、

「元々、『奥州12年合戦』と呼ばれていた」

   ↓

「これが前・後2つの合戦の総称と勘違い」

   ↓

「(なんでか知らないけど)前は9年、後は3年だろう」

   ↓

「(後世の人々)えーーーーっ!!」

だそうです。

どっかで訂正するチャンスはなかったのかと思いますが、「前九年」「後三年」という響きの良さもあって定着してしまったのでしょうか。

というわけで、「小学生レベルの算数ができなかった」のではなく、「勘違い」のようです。

index

★前九年合戦★【略年表】
①安倍氏(忠好ー頼時ー貞任)の最新研究

②源氏(頼義ー義家)の最新研究
③清原氏(光頼・武則兄弟)の最新研究

★前九年合戦★【略年表】

1036安倍忠好が陸奥権守に任じられる(『範国記』)
1051安倍頼良、反乱。前九年合戦開始

奥六郡を支配していた安部頼良(忠好の息子)は次第に南方に進出。租税も納めなくなる。陸奥守・藤原登任、出羽城介・平重成と合戦となり、安倍氏が大勝。
1052安倍頼良、源頼義に帰順

政府は安倍頼良を討つため、源頼義を陸奥守とする
安倍氏は源頼義に帰順の姿勢を示し、名前同訓を避けて頼時と改名した。 また、彰子による大赦で安倍氏は罪を逃れた。頼義の任期中は問題は起きなかった。
1056 阿久利川事件(あくとがわじけん)

頼義が国府に帰る途中、阿久利川で頼義配下の権守・藤原説貞の子・光貞、元貞らが何者かに襲われる事件があった。頼義はこれをあまり調べもせずに安倍頼時の息子・安倍貞任の仕業とした。(貞任と説貞は娘の婚姻をめぐって対立していた)

結果、貞任をかばう安倍氏と源氏の間で全面戦争に
1057安倍頼時死亡

戦乱は青森県東部まで広がる。安倍頼時は、そこの長である安倍富忠を味方につけようと説得に向かう最中に怪我を負い、安倍氏の拠点である鳥海柵(とのみのさく)で亡くなる。

その後も安倍氏は息子の貞任らを中心によく戦い、「黄海の戦い」では頼義はわずか7騎しか生き残らないという大敗を喫している。
1062 前九年の役終了

全体的に安倍氏有利で進んでいた。しかし、源頼義は、出羽の俘囚:清原光頼・武則兄弟を味方につけることで形勢逆転に成功。安倍氏を滅ぼす。

この時、安倍氏についた藤原経清は殺害されたが、その息子、藤原清衡(奥州藤原氏の祖)は生かされる。当時7歳。

もちろん史料(主に「陸奥話記」)の信憑性に問題があるかも知れないが、ひとまずこれを信じるしかない。

①安倍氏(忠好ー頼時ー貞任)の最新研究

出自は中央!?

1036年、安倍忠好が陸奥権守に任じられました。

これまでの研究で安倍氏は蝦夷の長と考えられていました。

しかし、近年、安倍氏が蝦夷の長を名乗っていたのは自称に過ぎなかったことが判明しました。

「範国記」という当時の日記より、安倍氏は中央貴族の出身であったことが考えられております。

※樋口知志先生「9世紀の鎮守将軍・安倍比高(これたか)の子孫」説(2011年)。

※淵原智幸先生「奈良~平安初期の移民系郡領氏族に起源を持つ現地有力者が国衙在庁官人として台頭した」説(2013年)。

安倍氏が拠点とした鳥海柵跡は現・金ケ崎町。

②源氏(頼義ー義家)の最新研究

阿久利川事件は自作自演?

発端は権守・藤原説貞の娘と安倍氏の婚姻をめぐるトラブルです。

安倍貞任の求婚に対して兄の光貞が身分の違いを理由に断りました。

もっとも、利権拡大を求めた源頼義が戦乱に持ち込むために自作自演したという説、

婚姻によって安倍氏が勢力拡大することを恐れた在庁官人層および藤原説貞による策略説などが唱えられております。

陸奥国の魅力

東北地方に多様な勢力が入り込んだ理由は、金、馬、昆布、熊やラッコの毛皮などが入手可能であった点が挙げられます。

また、より北方から交易で手に入るものもありました。

意外と東国武士との関係はまだなかった

源頼義は東国から武士たちを動員して戦ったと考えられていました。

しかし、最新研究では、源頼義が動員した「東国武士は意外と少ない」ことがわかりました。

頼義側の主力は朝廷の命令で動員した諸国の兵士が主でした。

東国武士と源氏の間に強固な主従関係が結ばれたと語られることが多いですが、この時点ではまだそれほどではありませんでした。

③清原氏(光頼・武則兄弟)の最新研究

前九年合戦ののちの論功行賞により源頼義は伊予守になりました。

一方、肝心の東北地方は清原武則が鎮守府将軍となり、出羽三郡と陸奥奥六郡の支配権を手に入れました。

東北の覇者となった「清原氏の内紛」から生じるのが「後三年合戦」です。

コチラも:前九年合戦はこの時代

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