こんにちは。
前回は「日独伊三国同盟推進派」で打線を組みました。
しかし、必ずしも推進派が大勢だったわけではありません。
そこで、今回は「日独伊三国同盟反対派」で打線を組みました。
昭和天皇が反対派であったにも関わらず、この同盟が結ばれたことに驚きを禁じ得ません。
以下、「総力戦のなかの日本政治」、「昭和陸軍の軌跡」、「昭和陸海軍の失敗」などを参考にさせて頂きました。
1左 有田八郎(交渉初期の外相)
2二 米内光政(交渉初期の海相、のち首相)
3遊 井上成美(海軍軍務局長、海軍三羽烏)
4中 昭和天皇
5一 ジョセフ・グルー(駐日アメリカ大使)
6三 石井菊次郎(枢密院顧問官、元外相)
7捕 吉田善吾(及川の前任、自殺未遂)
8投 東郷茂徳(外務省)
9右 及川古志郎(締結当時の海相)
1左 有田八郎 280. 12HR
新潟県佐渡島出身。1884年生。
日独伊三国同盟交渉は大きく分けて「第1期(1938年7月~、第1次近衛内閣)」と「第2期(1940年7月~、第2次近衛内閣)」に分けられます。
第1期に、大島浩(駐独大使)、白鳥敏夫(駐伊大使)、板垣征四郎(陸相)、リッベントロップ(ドイツ外相)らに真正面から対抗したのが、有田八郎(外相)、米内光政(海相)らです。
2二 米内光政 270. 18HR
岩手県出身。1880年生。
三国同盟は米英との対立を生む要素がありました。
もし米英と戦争となった場合、海軍は勝てる見込みが薄いため三国同盟に反対します。
陸軍関係者からのプレッシャーは相当だったようです。
(スポークスマンとなっていた次官の山本五十六には暗殺予告も。)
その後、阿部信行のあとを受けて総理大臣に就任しましたが、陸軍の妨害によって瓦解させられております。
3遊 井上成美 370. 24HR
宮城県出身。1889年生。
条約締結に反対した米内光政海相、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長をあわせて「海軍三羽烏」と呼ぶようです。
しかし、この3人のうち、最も徹底していて一貫性があったのは井上成美でしょう。
日米開戦時に「1年なら暴れてみせます」と近衛の前で話した山本五十六に「なぜ、はっきりできないと言わなかったのか!」と詰め寄ったほか(まったくもって正論)、及川古志郎も何度怒られたことか。
ドイツ語を学習し、ヒトラーの「わが闘争」を原文で読んでいたため、ヒトラーが日本を道具としてしか見ていないことに気付いていました。
4中 昭和天皇 —. —
東京都出身。1901年生。
日独伊三国同盟は、反対論を唱える昭和天皇を近衛、松岡が説得するような構図となりましたが、彼らよりも昭和天皇の方がよほど国際情勢を理解して冷静だったのではないか、と思います。
第1次交渉時は本国の訓令を無視する大島、白鳥に対して本国召喚するぞ!と硬派な一面も見せました。
5一 J.グルー 270. 17HR
ボストン出身。1880年生。
1932年~1941年までの駐日アメリカ大使。
日米関係悪化を避けようとしたが叶わず。
6三 石井菊次郎 275. 20HR
上総国(千葉県)出身。1866年生。
ヒトラーは国際条約を紙切れとしか思っていないから注意しなければならない、と警笛を鳴らしました。
枢密院は他にも反対者が多く、
「三国同盟を結んだら米英との関係が悪化する。そうなった場合、石油が手に入らなくなることも考えられる。石油の備蓄はどうなっているのか?」
と、まっとうな質問も出ていたのですがね。
結局、これらが「曖昧」なまま三国同盟締結されてしまうのです。
7捕 吉田善吾 222. 4HR
佐賀県出身。1885年生。
米内の後の海相を務める。(1939.8.30-1940.9.5)
本来反対派でしたが松岡洋右に説き伏せられて賛成してしまいました。
その後、ストレスにより自殺未遂を起こしました。
(結局1966年まで長生きします。)
8投 東郷茂徳 290. 10HR 7勝10敗 防4.50
鹿児島県出身。1882年生。
大島の前の駐独大使。
ユダヤ系ドイツ人と結婚しており、ナチスには批判的。
当然、三国同盟には反対だが、力及ばず。
日米開戦時は外相でした。
9右 及川古志郎 230. 0HR
新潟県出身。1883年生。
三国同盟締結時の海相。
前任の吉田善吾が締結にゴーサインを出してしまったとはいえ、逆にそれをひっくり返せるとしたら及川しかいませんでした。
日米開戦前も「海軍は戦えない」とハッキリ言えばいいもの、それでは予算がとれないと判断しただとか、海軍のせいでタイミングを逸したら申し訳ない云々とかで言わず。
こうしたリーダーの地位にありながら、リーダーらしさを全く発揮できていないという点で歴史家の評価は手厳しい。【コチラも】
(井上成美の方がよほどリーダー的。)
【年表】日独防共協定(1936.11.25)~日独伊三国軍事同盟(1940.9.27)
1936.11.25 | 日独防共協定 |
1937.7.7 | 日中戦争勃発 |
1937.10 | ルーズベルト大統領「隔離演説」(日独伊を非難) |
1937.11 | 日独防共協定にイタリアが加わる |
1938.1.16 | トラウトマン工作終了、第1次近衛声明 |
1938.2.4 | リッベンドロップ、外相就任 |
1938.7 | 防共協定強化交渉第1次交渉が本格化 (※ソ連以外に英仏を攻撃対象に加えるかが焦点) |
1939.1.5 | 第1次近衛内閣辞職、平沼内閣成立 (※有田外相、米内海相留任) |
1939.1 | 日本、海南島作戦 (南方進出の足掛かり) |
1939.5 | ドイツから非公表文書も含めたガウス案が出される |
1939.6 | 天津事件(イギリス租界封鎖) |
1939.7.26 | 日米通商航海条約破棄 |
1939.8.23 | 独ソ不可侵条約 |
1939.8.30 | 平沼騏一郎内閣総辞職、阿部信行内閣へ (※有田外相→阿部首相兼任→野村吉三郎外相) (※米内海相→吉田善吾海相) |
1939.9.1 | ドイツ、ポーランド侵攻、第2次世界大戦勃発 |
1939.12 | 「対外施策方針要綱」 ※東亜新秩序建設に南方が不可欠であるとの考えが出現 (元々は日・満・支であった) |
1940.1.16 | 阿部信行内閣総辞職、米内光政内閣へ (※野村外相→有田外相、吉田海相留任) |
1940.2.2 | 斉藤隆夫「反軍演説」 |
1940.3.7 | 斉藤隆夫の議員除名をめぐって各党が分裂 |
1940.4 | ドイツ、デンマーク、ノルウェー侵攻 |
1940.5 | ドイツ、オランダ、ベルギー制圧 |
1940.6 | ドイツにフランス降伏 |
1940.7.22 | 米内内閣総辞職、第2次近衛内閣誕生【新体制始動】 松岡洋右、外相就任 吉田海相→及川海相(9.5~) |
1940.7 | 防共協定強化交渉第2次交渉開始 ※現在の交戦国以外の他国(アメリカを想定)から攻撃された場合の自動参戦が焦点に |
1940.9.19 | 御前会議 |
1940.9.22 | 日本、北部仏印進駐 |
1940.9.27 | 日独伊三国軍事同盟 ※蘭印と物資輸入交渉を行なっていたが、これにより蘭印は物資がドイツに流れることを懸念して暗礁に |