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☞【満州事変は後戻りできた?】『教養としての昭和史集中講義』§2.

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「満州事変はなぜ後戻りできなくなったのか?」という点です。

教養のための昭和史集中講義」(井上寿一、2016年)の第2章「満州事変はなぜ後戻りできなくなったのか」などを参考にさせて頂きました。(前回まではコチラ

満州事変はなぜ後戻りできなくなったのか?

①「軍縮」という軍部の焦り

第1次世界大戦まで、軍事費は国家予算の約半分を占めておりました(驚)。

しかし、大戦後は世界的な軍縮となり、ロンドン海軍軍縮条約(1930年)以後の軍事費は国家予算の1/4以下になりました。

これは少ない兵力で満鉄沿線を守る関東軍にとっては「死活問題」でした。

もし、いずれかの政党が軍縮に反対していたら満州事変は起きなかったのかも知れませんが、政党はいずれも軍縮に賛成でした。

このようなことから自力で解決しなくてはいけないという姿勢が生まれます。

②満蒙が見捨てられる危機感

また、国家の存亡を賭けて戦った日露戦争でせっかく得た権益であるのに、

「満蒙のわずかな権益など排して経済を活発化させた方が良いのではないか」

という風潮に対する危機感も、軍部の考えに拍車をかけます。

実際にこの頃になると蒋介石が中国統一目前でした。

広大な中国を考えれば蒋介石と揉めるよりも中国全体を通商相手とした方がメリットが大きい、という考えも生まれておりました。

※実際、日中関税協定(1930年)により両者の関係は良好でした。

※しかも満鉄は赤字経営・・・

(※一方、陸軍は陸軍の方針として満州を対ソ連に備えるための重要な土地、そして重要な資源と考えていました。)

1931年6月に行なわれた元満鉄副総裁・松岡洋右(当時、政友会)の「満蒙は日本の生命線」という演説は「軍事的に」という意味合いではなく、満蒙との経済関係を活発にすることで、日本経済も潤いましょう、いう意味だったのです。

(松岡にしてみれば9月の柳条湖事件で蒋介石と関係悪化することなど想定外でした。)

③アメリカが経済制裁をしなかった

ただ、もしアメリカが経済制裁を加えていれば満州事変は頓挫していたでしょう。

当時、アメリカは良き経済パートナーでして、日本経済がなんとか持ちこたえていたのはアメリカとの結びつきがあったからです。

そんなアメリカが経済制裁をすることを関東軍も恐れていました。

しかし、アメリカは世界恐慌後のニューディール政策で精一杯でそんな余裕がありませんでした。

幣原喜重郎外相らは、アメリカが経済制裁発動のカードを見せることで関東軍の行動を止めることができると考えておりましたが、実際はそうならなかったのです。

④朝鮮軍の独断越境と予算通過

関東軍は1万程度の兵力でした。

相手はその数十倍です。

しかし、朝鮮軍が関東軍を助けるべく越境してきました。

これで、さらに事変が拡大します。

さらに、若槻内閣はこれらの軍に対する食糧を予算として認めてしまうのです。

(若槻内閣にも問題はあるのですがね。)

⑤加熱する新聞報道

加熱する新聞報道も問題となりました。

新聞の発行部数が伸びたことを二大政党は「満州事変を国民は支持している」と勘違いしたのでした。

実際は安否を気遣う、などといった側面が大きかったようですが。

そうこうしている間に関東軍前線は拡大します。

⑥協力内閣構想の失敗

満州事変拡大を阻もうと、安達謙蔵内相は「協力内閣構想」を持ち出しました。

総裁は犬養毅(立憲政友会)にするという大胆なものです。

当初、若槻禮次郎首相も賛成していましたが、幣原外相、井上準之助蔵相が反対します。

幣原はアメリカ、あるいは金谷参謀総長が何とかできると考えていました。

井上も単独政権で立ち向かうべき、と考えていました。

一方、政友会も不況を尻目に次回選挙では「積極財政」を掲げれば勝てると考えておりました。

そのため、今、議席数が少ないのに首相に送り出すというような肩身の狭い思いをしてまで政権を担う必要がないと考えるようになりました。

このような駆け引きをしている間にさらに戦線拡大していくのです。

異なる政策の相手と安易に手を組まなかったことで、幣原、井上は「憲政の常道」を守った、という評価も。
協力内閣構想は財閥系銀行が黒幕、という説も。

⑦そうこうしている間に既成事実が積み重なる

こうしているうちに、数々の既成事実が積みあがってしまいました。

そして、政権は民政党・若槻禮次郎から立憲政友会・犬養毅へ。

犬養首相は「五一五事件」で暗殺されたのですが、犯人に対して大規模な助命運動が起きました。

世論はぐだぐだといつまでも国内外の問題に対応できない政党ではなく、軍部の方が頼りになるのではないか?と思うようにすらなっていました。

政党内閣は終焉し、海軍穏健派の斎藤実が首相に就任しましたが、これは軍部が台頭したというよりは、「政党が自滅した」というものです。

(※斎藤実内閣自体は軍部独裁政権などとは程遠く、挙国一致内閣でしたし、斎藤実首相自体が軍縮に賛成するなど「穏健派」でした。)

しかし、斎藤実内閣で満州国が承認されます。

外務省は満州国承認だけは避けようとしていましたが、政党は「世論は満州国支持」と勘違いして、軍部に迎合していました。

(※陸軍は単独で熱河作戦を実行しようとしていましたが、国連の対日非難勧告後に熱河作戦を起こしてしまうと経済制裁が発動してしまいますので、国際連盟脱退しました。)

軍縮以降、肩身を狭くしていた軍部は「五一五事件」以降は政治的な立場が強まっていきます。

満州事変、五一五事件を経て「昭和陸軍」が表舞台に。

おまけ:岡田啓介内閣と天皇機関説問題

この時期、選挙のたびに無産政党が躍進していました。

岡田啓介首相は海軍出身でしたが、社会政策の充実した「民政党」+社会主義的な「無産政党」の連立政権を目指していたと言われます。

ここで、従来、資本家との結びつきの強い「政友会」も社会政策に力を入れるべきだったのかも知れませんが、政友会はあろうことか「天皇機関説問題」に力を入れてしまうのです。

もしかすると、政党政治に戻るチャンスはあったのではないか、というのが次章のテーマになります。