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☞【南北朝時代第3期㉒:1390年】『山名氏内戦!美濃では土岐康行の乱!』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期㉒」です。

足利義満は山名氏の惣領争いにも介入し、山名氏の内戦を経て山名満幸が惣領格となります。

康応2年→明徳元年/元中7年(1390年)年表

2/足利義満、山名満幸・氏清に山名時熙・氏之の追討令を出す

★山名時義はこれまで但馬に在国して幕府の命令に従わないことが多かった。
★山名時義死後は惣領の地位をめぐって、山名時熙・氏之方と、山名満幸・氏清・義理方に分かれていた。
★義満は、追討したら満幸に伯耆を与え、氏清には但馬を与えるとした。
★一方、山名氏清は一族の衰退を思い赦免を要求するも、義満は赦免はないとした。
3/山名満幸・氏清、但馬にて山名時熙を追討

★山名氏之も伯耆を奪われ、備後へ没落したのち、山名時熙とともに京都に潜伏したとされる(「明徳記」)
★山名満幸は伯耆守護となり、丹後・出雲・隠岐・伯耆の4カ国の守護となる。
★但馬国守護は山名氏清となる。
3/細川頼之、備後守護に命じられる

★四国から出兵した頼之は備後国を制圧。
★備後はかつて今川了俊が守護だったが、康暦の政変で山名氏のものになっていた。
★ただ、山名氏全体で見ると、丹波・和泉・但馬(氏清)、丹後・出雲・伯耆・隠岐(満幸)、美作・紀伊(義理)、因幡(氏家)10カ国の守護職であり、トップが時熙から満幸に変わっただけで勢力は維持されていた。
3/26明徳に改元

★天変・兵革により改元
閏3/山名時熙、備後国北部の国人・山内通忠に対して同国信敷荘東方(広島県庄原市)を給分として与える

★山内氏との関係強化により細川氏との戦闘を有利に展開することを図ったと考えられるが、以後、同国における山名時熙の動向は確認できていない。
閏3/土岐康行の乱(土岐氏の乱」)

★土岐氏は美濃・尾張・伊勢を抑えており、東西の結節点として絶大なポジションを担っていたが、土岐頼行の死により、足利義満が人事介入。尾張国の守護を総領である康行ではなく、その弟の満貞に継がせたため一族の間で対立が起きていた。
★土岐康行は美濃国池田郡小島城(岐阜県揖斐川町)で挙兵したが敗退して越前に没落。
★美濃国守護には土岐頼忠(土岐頼康の弟)、伊勢国守護には仁木満長(かつて伊勢守護であった仁木義長の長男)が任じられた。
義満
「土岐康行の乱」は教科書的には1390年で覚えたら良いよ。実際は1388年から土岐氏の内戦は始まっているんだけどね。ちなみに山川出版社は「土岐氏の乱」って書き方をしているね。
山名満幸
僕の方が山名の惣領に相応しい!そうだよね!氏清おじさん!
山名氏清
うーん…たしかに本流は師義兄さんの息子である義幸・氏之・義熙・満幸かとは思うが、一族同士での争いは結果的に山名を弱体化させることにならないかね?時義はたしかに傲慢なところもあったけど、時熙や氏之は義満さまに許してもらえないだろうか?
山名時熙
うーん…、山名と細川の関係を考えたら義満さまは一筋縄では許さないだろうな…。しょうがない…。
細川頼之
苦節10年余、ようやく本州に足がかりを得ました。残りの人生、義満様ならびに幕府に捧げます。
斯波義将
一応、私は管領なんだが、立つ瀬がない…
土岐どのも勢力を削がれて、細川が復権…
「康暦の政変」の逆回転だ…

山名氏11カ国獲得までの道程

1337山名時氏、足利政権樹立の戦功から伯耆国守護となる

★室町幕府草創期において重要な役割を果たす
★山名時氏は足利尊氏・直義の縁戚にあたる
★中国地方における南朝との戦いの最前線でもあった
★伯耆国は1552年、尼子氏に奪われるまで山名氏が守護を務める
1341山名時氏、南朝との戦いで功績をあげて丹後・出雲・隠岐国守護となる

★丹後国守護は1350年に上野頼兼に交代
★出雲・隠岐は1343年~佐々木道誉に交代
1343出雲国・隠岐国守護は佐々木道誉に
1348山名時氏、若狭守護となる(若狭および出雲の利権を巡って引き続き佐々木道誉と対立)

★若狭国は1351年、大高重成に交代
1350観応の擾乱

★観応の擾乱では反幕府方の有力勢力として行動
★山名時氏は当初、足利尊氏方であったが、佐々木道誉との対立もあり足利直義方として戦う
★一方、出雲にいた息子の師義は尊氏派として戦う
★丹後国守護は上野頼兼に
1351若狭国は大高重成が守護に

★大高重成は当初、直義方として戦っていたが、それでは若狭守護になれないとして尊氏方に寝返る
1353山名氏、一時京都占領

★直義死後、一時的に尊氏派となるも、再び南朝方となり戦う。足利直冬と共闘。
1362山陰地方を制圧して丹波国に攻め込むも丹波国守護仁木義尹に敗北
1363山名氏、幕府に帰順

★幕府の帰順工作に対して領土保全を条件として帰順。勢力を維持・拡大
★時氏は伯耆・丹波守護に、師義は丹後、氏冬は因幡、時義は美作守護に任命され(後に義理に交代)、山名氏は5か国の守護となった

※南朝は南朝で守護を任命していたので、これ以前はどうカウントすべきか迷う
※丹波・丹後は仁木義尹より、美作国は赤松貞範より
5
1364若狭守護ではないが、重要拠点である若狭税所今富名(福井県小浜市)などを得る

★1366年に若狭守護となった一色範光は領国経営に支障をきたす
5
1367足利義詮死去、足利義満が将軍となり細川頼之が管領として後見人となる

★山名時氏は細川頼之の管領就任に反対
5
1371山名時氏死去。師義が惣領となる。5
1372山名師義、足利家の家人・長氏が守護であった但馬国を獲得6
1373山名師義と細川頼之が対立

★これにより諸国の軍勢が京に集結(12月)
6
1376山名師義死去、弟の山名時義が惣領となる

★時義の時代に南朝との戦い、細川氏との争いを通じて分国が11カ国に増える。
6
1378山名義理・山名氏清、細川氏が鎮圧できなかった橋本正督の乱を鎮圧すべく、義理が紀伊、氏清が和泉守護となりこれを鎮圧8
1379山名時義、山名義幸、康暦の政変による細川氏失脚に伴い、それぞれ今川了俊が治めていた備後国、佐々木高秀が治めていた出雲・隠岐国の守護となる

★山名義幸(師義の息子)、中国地方と伊予における細川頼之との戦闘に備えて下向
★さらに伊予守護・河野氏と連携して細川頼之に対抗
11
1385山名氏清、山城国守護

★それまでは侍所(軍事・警察を担った組織)が兼任していたが、山名氏清が初代に就任。その後、赤松義則に代わるが、1389年から再び山城国守護に。国の数え方として山城国を加え、出雲・隠岐を2カ国と数えると12カ国になる…。

※なお、侍所時代には山名時義(1375年)、山名氏清(1377年)、山名義幸(1378-9年)、山名時義(1384-5年、1386年)が侍所頭人に選ばれている。
※もともと侍所は将軍直轄機関で室町幕府初代侍所頭人は高師泰。
※侍所頭人の役職は1398年からは四職(赤松氏、山名氏、一色氏、京極氏)が交代で務めることに。
12?
1389山名時義死去

★惣領は山名時熙が継ぐ。これにより、山名師義の三男である山名満幸が激怒、内紛となる
★山名時熙(山名時義息子)・山名氏之(山名師義次男)vs山名満幸(山名師義三男)・山名氏清(彼らの叔父)・山名義理(彼らの叔父)という構図となる
12?

1385年時点での守護国。山名一族でこれだけの領土を占める。山名シフトとして、細川頼元、畠山基国、一色範光、赤松義則、渋川満頼が隣接地を抑えているとはいえ、山名一族が団結して攻め込んだらひとたまりもないのではないか。複数国所有しているのは大内義弘(3カ国)、赤松義則(2カ国)のみ。一方で山名氏は時義(但馬・伯耆・備後3カ国)、満幸(丹後・出雲・隠岐3カ国)、氏清(和泉・丹波・山城3カ国)、義理(美作・紀伊2カ国)、氏冬(因幡1カ国)。

山名時義死後、それが時熙に相続されたことで満幸が不満を持ったという書かれ方をしますが、山名時義が生きている最中に既に3カ国を有していた満幸がさらに3カ国を得たら、6カ国となり、明らかにバランスを失うとは思うのですが。(結局、1390年の内戦で伯耆→満幸、但馬→氏清。備後→細川頼之に。)

山名時義
いいか、あんまりバランスを失うと将軍の目の敵にされるぞ。
山名満幸
欲しい、欲しい、欲しい!だって僕は山名の惣領にふさわしいし、義満さまにも評価されてるもん!
山名時熙
満幸くんは強欲だな…。氏之さんなんてどこの国ももらっていないのに…。
足利義満
大人しくしてくれていたら良いんだけどね
細川頼之
はい、いつかはつぶさないといけない相手です。彼らは南朝と思っていたら良いと思います。
山名氏清
山名一族の繁栄は男児の多さにもあったが、多すぎると今度は争いの種に…。一致団結できればこれほど強い組織はないのだが…。