~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑯:1866年上半期」です。

藩論を転じていた長州藩の征討指令が再び出されます。

しかし、グラバー、坂本龍馬を通じて最新鋭の武器を購入していた長州藩は、今までとは全く違っていました。

また、列国と結んだ「改税約書」により輸入超過が進み、

庶民の暮らしは圧迫されます。

1866年(慶応2年)上半期

1/22 薩長盟約締結(※1)

※この時点では長州が朝敵とならないように画策することがメインである。
※近年、倒幕を目指した同盟ではないため、「薩長同盟」から「薩長盟約」と名称変更。
※敵は慶喜・容保(会津)・定敬(桑名)の「京都方」であり、江戸幕府ではない。
1/23寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)

※幕府が坂本龍馬を捕らえようとした。
※坂本龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で応戦。
1/30アーネスト・サトウ「英国策論」(※2)

※「タイクン(幕府)の地位を引き下げ、ミカド(天皇)を元首とするべき」という内容
※薩摩藩の従来の主張とも合致。
※以後、イギリスは英国策論どおりに動く。
3/12イギリスの外務次官ハモンド(極東政策の現場のトップ)

日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない。事実、その変化は我々の考え方と異なる仕方でおきるかもしれないが、それが実に真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格と言う特徴を帯びていなければならない
5/13改税約書調印(※3)

※兵庫開港不許可の代わりに。
※以後、輸入急増
6/7 第2次長州征討開始。幕府軍、各地で敗退。(※4)

※開戦後、ロッシュとパークスは桂に降伏しての和議を提案するが、桂は「幕府のほうが停戦を求めてきたら考慮します」と一歩も引かず。
※長州藩は数で劣るものの、最新式の武器を有して戦いを有利に展開。
※大村益次郎の軍略も功を奏し、さながら「狩り」のようだったと言われる。
※会津藩は長州藩とのこれ以上の対立を避けるべく前面に立っていない。みな厭戦気分で、早く国元に帰りたいのが本音。(しかし、容保は許さず。)
※幕府軍の士気が低いことを見抜いた新選組・近藤勇は幕府の敗退を予言。

(※1)薩長盟約締結

1866年には、土佐藩出身の坂本龍馬(1835-67)、中岡慎太郎(1838-67)らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允らが相互援助の密約を結び(薩長連合)、反幕府の態度を固めた

「詳説日本史研究」p326
長州藩に武器を売るぜよ。

薩摩藩には兵糧を売るぜよ。

教科書には「同盟」と書かれておりますが、近年では、「盟約」という表現が使われることも多くなりましたね。
この時点では、長州藩を朝敵にしないことが目標でごわすな。
そして、敵は幕府ではない。

一橋慶喜、松平容保、松平定敬じゃ。

これまでの恨み、晴らすのじゃ。

このあと、高杉とも話しした。

奴ら、グラバーから武器買ってるな。

内政干渉だろうが、見逃すか。