こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑱:1867年第1四半期」です。
幕末の後半は特に複雑です。
1867年はさらに細かく分けることにしました。
「第2次長州征討」で敗れた慶喜は、雄藩連合による天下公論を目指し、
島津久光らは再び上京します。
慶喜は勅許が得られていないにも関わらず、兵庫開港を列国に約束しました。
そのため、慶喜に反感を抱いた朝廷も全国25藩に召集をかけました。
しかし、朝廷の呼びかけに集まったのは9藩で、むしろ幕府の力が強いことを示すことになりました。
1867年(慶応3年)・第1四半期
1/9 | 明治天皇践祚 ※第122代 ※満14歳 |
1/13 | 坂本龍馬の亀山社中、土佐藩の外郭団体となる ※後藤象二郎との話し合いにて。 ※坂本龍馬の脱藩も赦免。 |
1/23 | 征長軍解兵の沙汰が下る ※小倉藩と長州藩はまだ戦闘中であった。これにて第2次長州征討、終結。 |
2/11 | 松平容保、京都守護職辞職申し出る ※過酷な任務を負わせながら、全く耳を貸さない慶喜に対して反感を抱く。 ※三条ら過激攘夷派公家の帰洛を認めさせたり、第2次長州征討に参加しなかったことで、薩摩藩に対しても反感。 ※国元へ変える動きを見せたが、辞職は認められず。 ♨結局留任してしまう優柔不断さが仇となる。 |
3/5 | 慶喜、兵庫開港の勅許奏請 ※開港予定日(12/7)が近づいても、勅許が得られていなかったため、パークスらが催促。 ※慶喜は諸藩に回答期限を20日と設けながら豹変し、期限を待たずに奏請した。(→諸藩は不信感。) ※結局、勅許は得られず。 ※慶喜は、雄藩連合を目指すと言っておきながら、独裁を志向した。 |
3/22 | 慶喜、再び兵庫開港勅許奏請 ※またしても勅許は得られず。 |
3/24 | 朝廷、全国25藩に対し、慶喜上表文に対する意見具申と藩主上京を求める ※岩倉具視と薩摩藩による。この頃は朝廷内にも王政復古派が増えていた。 ※しかし、集まったのは9藩。 |
3/25 | 慶喜、列国公使の前で兵庫開港を確約 ※自分がこの国のトップであることを示し、列国の信頼を得ようとする。 ※ただ、この時点ではまだ勅許を得られていないので国内の反発が相次ぐ。 |
もうやってられるか!
大体、長州征討だって、なんだ!
私の言うことを聞いていれば、こんなことにはならなかったというのに!
まあ、それはそうと、兵庫開港問題の方が忙しくてねー。
え?雄藩連合?合議制?
そんなこと言いましたっけ?
第2次長州征討での講和条件で、
「長州藩の朝廷へ寛大の御処置を願ひ、
又諸大名をも会同(集まって相談)して国事を議する事に仕るべきなり
(=天下公論)」
って言ったでしょうが!
私としても、再び国政に参画する時宜を失う訳にはいきもはん!
そもそも、1865年の兵庫開港要求事件の時はあれほど勅許にこだわったのに、なんで今、勅許無しでなんで、開港約束しちゃうの!
え、そうでしたっけ?
ま、情勢は常に変わるんですよ。
それより、皆さん、私の立場、わかってる?
…やっぱり、コイツとは上手くいかない…。
武力討伐しかないのか…
私、明治天皇。
満14歳で天皇になるとは。
以後、よろしく。