こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑳:1867年第3四半期」です。
結局、薩摩藩は武力倒幕に舵を切りました。
議会設立を提唱していた薩摩藩兵学教授の赤松小三郎は暗殺されます。
一方、世間では「ええじゃないか」騒動が沸き起こります。
1867年(慶応3年)第3四半期
8/14 | 原市之進(慶喜の参謀役)暗殺 ※この頃、挙兵計画が漏れ、薩摩と幕府は関係悪化していた。 ※しかし、犯行は薩摩藩ではなく、幕臣によるものであった。 ※兵庫開港における朝廷、各藩への根回しは彼によるものだった。 ※兵庫開港を変節ととらえた同僚が暗殺。妬みもあった。 ※小松ー原ラインが完全に消滅。 ★以後の慶喜はブレーンを失って迷走? |
8/ | 「ええじゃないか」騒動が起こる(~12月)(※1) |
9/3 | 赤松小三郎暗殺(※2) ※洋式兵学者として京都に私塾を開くほか、薩摩藩の軍事顧問も務めた。 ※以前から議会設置論者であり、幕府と薩摩の平和的融和を望んでいた。 ※薩摩藩が武力倒幕に傾いたため、暗殺された。 |
9/6 | 薩土盟約破綻(※3) ※後藤象二郎が英国水夫殺害事件に時間を割いている間に、両者がすれ違い。 ※薩摩藩と異なり土佐藩は将軍存続を望んだ。 |
9/8 | 三藩盟約 ※薩摩(西郷、大久保)と長州(広沢真臣、品川弥二郎)、芸州(辻維岳)の間で三藩盟約 ※武力協定。 |
9/18 | 大久保利通、山口に赴き、長州藩首脳部と会談 |
9/19 | 薩摩・長州藩の上方出兵協定成立(※3) ※ようやく武力倒幕への道筋ができる。 ※薩摩藩内では薩英戦争からの復興財政難などにより挙兵に反対する一派から西郷暗殺計画もあった。 |
9/20 | 坂本龍馬、桂小五郎に書簡 ※もし大芝居(大政奉還)が不成功で、後藤がその後、武力倒幕へ移行しないようであれば、板垣退助に接触することを告げる。 |
9/21 | 慶喜、京都市中から二条城に移る |
9/23 | 土佐藩士福岡藤次(福岡孝弟)、大政奉還建白書草稿を大久保のもとに持参 |
9/28 | 薩摩藩主島津茂久と久光の名前で上方への出兵と倒幕を結び付ける ※どうやって結びつけたのかは定かではないが、小松帯刀が久光の三男・珍彦を通じて言いくるめたのではないか。 この小松帯刀の功績は大きい。 |
(※1)ええじゃないか
幕末には黒住教(1814~)、天理教(1838~)、金光教(1859~)など「教派神道」と呼ばれる民衆宗教が流行しました。
1867年、東海地方に伊勢神宮など神々の札が降るお札降りから始まった、「ええじゃないか」と連呼しながらの民衆の乱舞は、またたくまに近畿・四国へと広がった。
「詳説日本史研究」p326
また、「王政復古の大号令」が起きるとピタリと止んだことから、倒幕派の策謀という説もあり、実際にそうした証言もあるのですが、きっかけの1つに過ぎないと考えられております。
いずれにしても、この民衆のパワーは倒幕には有利に働きました。
豊年踊りはおめでたいー
お蔭参りすりゃ、ええじゃないかー
さあ、みんなで狂っちゃえー
盗んで食べても、ええじゃないかー
蟄居中の下級公家に過ぎないのですが。え?顔が怪しい?
どういうこと?
(※2)赤松小三郎暗殺
数ヶ月前に、幕臣の原市之進も殺害されておりますが、
穏健派である赤松小三郎が暗殺されました。
坂本龍馬よりも先に公式に議会政治の必要性を説いております。
京都薩摩藩邸で薩摩藩士たちに英国式の軍事教練を教えておりましたが、
薩摩藩が武力倒幕に傾いたために弟子たちに暗殺されてしまうのです。
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明治維新は別の姿になる可能性があったのに!
(※3)薩土盟約破綻、薩摩藩は武力倒幕に舵を切る
薩土盟約を結んでおりましたが、「思惑の違い」で盟約は解消されます。
土佐藩とは話が合いませんね。
ただ、薩摩藩も一枚岩ではなかったでごわす。
おいどんも、薩摩藩穏健派によって暗殺されかけたでごわすよ。
しかし、これが倒幕と結びついたのは小松殿の功績かな。
そしてこの後、私は病にかかってしまうのです…
早く幕府に大政奉還のアイデアを伝えねば…