(※1)3日、「鳥羽・伏見の戦い」開戦
新政府軍が徳川慶喜を政権に加えず、彼に対して辞官納地を要求したことは旧幕臣や会津・桑名藩士たちを著しく憤慨させた。いったん大坂に引きあげた慶喜は、1868年1月、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて上京しようとし、これを迎え撃った薩長両藩を中心とする新政府軍(「官軍」)との間に鳥羽・伏見の戦いがおこり、ここに戊辰戦争が始まった。
「詳説日本史研究」p329
私、城で寝てました。
もう勝手にしてくれ、って感じで。
鳥羽・伏見の戦いは「歴史ヒストリア」でも紹介されておりました。(↓)
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/363.html
新政府軍の兵力が約5000であったのに対して、旧幕府軍の兵力は約15000でした。
第2次長州征討のときのように、旧幕府軍の兵器が劣っていたわけではなく、
この頃は旧幕府軍もフランスの指導を得て、パワーアップしておりました。
幕府は銃をもっていても、戦闘にはならないと思って、弾をこめていなかったではないか。
刀の時代は終わったのか…
(※2)4日、「錦の御旗」登場!
翌日、新政府軍に「錦の御旗」が登場します。
「錦の御旗」は、これを持っている方が、正式な「官軍(天皇軍)」という意味があります。
天皇に逆らうつもりなんて全くないのに。
私、水戸学を学んでいる、天皇の一番の忠臣ですよ。
徳川vs天皇はあり得ん。
(※3)5日、「淀藩の裏切り」!
旧幕府軍も一時は盛り返しましたが、それでも劣勢となり、しょうがないので淀城に逃げ込もうとしました。
淀城は難攻不落と言われた名城。
しかも老中・稲葉正邦が城主です。
しかし、旧幕府軍が城に入ろうとしても、淀城の門は閉ざされていて中に入れません!
どうなってるのっ!!
当日、稲葉正邦は江戸にいて不在。
留守を預かった家臣は、藩主に相談もせず(まあ、時間的に無理でしょうね)、
独断で、官軍についたのでした。
徳川家から全く連絡がなかったので、
忘れられているのかと思ったですよ・・・
(※4)6日、「慶喜、大坂城脱出」!
そして、まさかの事態が起きます。
徳川慶喜は、夜中、松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)らを連れて、大坂城を脱出!
容保たちがいたら、会津・桑名と官軍の戦争がおさまらないだろうから連れてきたー。
私は、武士というより、公家なんですよねー。母親が公家ですから。
それができないと「ぶれ」が生じてチームは弱くなる。
やっぱり「逃げた」んだろう。
って、将軍??えー??聞いてないよー!
しょうがねぇ、おいらが取りにいくわぁ。こんなことすんのはワシくらいじゃろっ!
(※5)7日、「慶喜に追討令」。
鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、江戸へ引き上げた慶喜を「朝敵」として征討の軍をおこし、各地で旧幕府側の勢力を打ち破り、江戸に攻め下った。
「詳説日本史研究」p329
(※6)12日、「慶喜、江戸城帰還」!
慶喜へ江戸に戻ってきました。
家臣たちは主戦論が多かったのですが、
あくまでも恭順を貫きました。
同時に海軍を駿河湾に突入させ海から補給部隊を砲撃しましょう。
そうすれば補給の途絶えた薩長軍は皆殺しです。
恭順って言ったら、恭順。
あとは、勝海舟、頼む。
わかりました。やりますよ。
あ、もちろん、お金は後でたんまりもらいますが。