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☞【幕末年表㉗:1868年4月】『会津は死を以って謝する外これなく…』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表㉗:1868年4月」です。

4月11日、江戸城無血開城が行われました。

これで戊辰戦争は終結するはずでしたが…

東征軍は私怨深い会津への謀略を試みます。

これに呼応する形で、「会津戦争」が勃発しました。

一方、新政府は「政体書」を発令し、それまでの総裁・議定・参与の「三職」制度から、議政官・行政官・刑法官による三権分立制にしました。

また、地方統制は、「府」、「藩」、「県」が混在する「府藩県三治制」が採られました。

1868年(慶応4年)4月・閏4月

4/3近藤勇、捕縛
4/4 勅使橋本実梁、江戸城に入る。慶喜の水戸退隠を命じる。
4/7プチャーチン(ロシア)との交渉で功のあった川路聖謨、江戸城内でピストル自殺

※日本最初のピストル自殺?
4/9 静寛院宮、江戸城を去る
4/10 天璋院、江戸城を去る
4/11 江戸城無血開城(※1)

※江戸城、官軍に引き渡される。
※慶喜、水戸に向かう。
※この前後、幕府陸海軍将兵の脱走相次ぐ。
(陸海軍の受け渡しも決まったため反発。)
4/19宇都宮城の戦い

※新選組・土方歳三、大鳥圭介、桑名藩・立見尚文ら
※23日と2度に渡る攻防
※最終的に旧幕府軍は会津へ向かう
4/21 有栖川宮、江戸城に入る
4/25近藤勇、処刑
閏4/2 勝、大総督府より江戸市中取締を委任される

※旧幕府軍の暴発を防ぐ役割
閏4/4 軍防事務局判事・大村益次郎、江戸に入る

※旧幕府軍の反乱分子の掃討目的

勝、慶喜の江戸帰還を求める嘆願書提出
閏4/10副総裁・三条実美、「関東観察使」兼任

※戦後処理の全権を委ねる。
大総督および麾下の将軍による江戸の軍政を長期化させない目的があった。
閏4/11白石(しろいし)会議

※仙台藩、米沢藩ら、白石城(仙台藩)で会談
※会津藩、庄内藩の赦免を周旋
閏4/17浦上信徒弾圧事件(浦上四番崩れ)

※長崎市浦上村の隠れキリシタンが捕縛され、流罪が決定。
※諸外国からはクレーム。のちに五榜の掲示のキリスト教禁教を改めることになる。

奥羽諸藩からの嘆願書却下
閏4/20会津戦争開始

奥羽鎮撫総督府下参謀・世良修蔵(長州藩)、殺害
閏4/21政体書発布(※2)

※新政府の組織を整えた
閏4/24 関東監察使三条実美、江戸城に入る

※有栖川宮ら軍部と政治の二元化を防ぐ
閏4/29 田安亀之助、徳川家相続が認められる

※徳川家の存続が正式決定

(※1)江戸城無血開城!…

鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、江戸へ引きあげた慶喜を「朝敵」として征討の軍をおこし、各地で旧幕府側の勢力を打ち破り、江戸に攻め下った。すでに戦意を失っていた慶喜は恭順の意を示し、同年4月、新政府軍は戦うことなく江戸城を接収した。

「詳説日本史研究」p329
パークス
何度も言うが、勝手に戦争すんなよ。

そして、恭順を示してる慶喜公を殺すなんて万国法に背くようなことをしたら評判悪くなるぞ。

松平容保
私も恭順の意を示しているんですけど…
世良修蔵
あん!会津が何言ってんだ!

京都守護職時代には散々世話になったなぁ。

松平容保は生かしちゃおけん。

それに全財産没収じゃ。

お前に言ってるんじゃない!

天皇に言ってるんだ!

はぁん?

お前らやんのか?

会津とやるか、俺らと戦うかどっちだ?

この人質も惨殺してやる。

ダメだ、、、

こいつは…

会津への私怨しかない…

こうして終わるはずの戊辰戦争は、再燃するのでした。

ちなみに世良修蔵は仙台藩士たちにより暗殺されます。

えー、俺暗殺されちゃうの!?

大総督府参謀・林通顕(宇和島藩)殿の命令でやってただけなのに!

こちらの先生のブログが秀逸です。

会津藩はなお新政府に抵抗する姿勢を示し、仙台藩など東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩を支援した。

「詳説日本史研究」p329
こんな書き方されたら困るって!名誉毀損だ!

星亮一先生、なんとか言ってくだされ!!

抵抗したというより、薩長の謀略を受けたというところですかねー。
ただ、大山先生のブログを読むと、会津藩も不審な動きがなかったとはいえないぞ。
一方、江戸城を接収した新政府は、征東軍による江戸支配という政軍二元化を長期化させないよう、矢継ぎ早に対応します。

(※2)政体書発布

閏4月、政体書を発布して誓文の方針を官制に具体化して、新政府の組織を整えた。

【政体書の官制】
政体書では、「天下ノ権力ヲ総テ太政官ニ帰」せしめ、中央集権化をはかるとともに、アメリカ憲法を模倣して、その権力を立法・司法・行政の三権にわかち、形式的には三権分立の体裁を整えた。立法を担当する議政官には上局・下局を設置し、行政部門には行政官のもとに4官を設け、司法部門には刑法官をおいた。高級官吏は4年ごとに互選で交代させることとしたが、実際には有名無実であった。なお、地方官制は府・藩・県の三治制とした。

「詳説日本史研究」p331
起草者は福岡孝弟(土佐藩)と副島種臣(佐賀藩)どのじゃ。
大村益次郎
ちなみに、行政官は神祇官・会計官・軍務官・外国官を束ねます。

軍務官の知事は義彰親王、副知事は長岡護美どの(熊本藩主弟)で、私はその下の判事です。

岩倉具視
行政官の輔相(長官)には三条実美どのと私。

ともに副総裁から横滑りですね。

総裁だった熾仁親王は太政官から外された格好になります。

三条実美どのは東下したので、実質的には私が行政官を束ねる形となります。えへん。

それまでは総裁・議定・参与の三職でしたね。

ちなみに中央集権の第一歩として、通貨鋳造権と外国人雇用権を藩から取り上げました。

太政官・議政官・行政官・刑法官・神祇官・会計官・軍務官・外国官で、計7つあるので、「七官制」とも言います。

のちに、民部官を新設して8つになりますが。

少々慌ただしいですが、1869年になると「二官六省制」となり、地方は版籍奉還により、旧藩主が「知藩事」となります。

そして、1871年に廃藩置県となるわけでごわすな。

中央は「二官六省制」から「三院制」となるでごわす。

めんどうくさくて、申し訳ござらぬ。

 
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