~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、皇極天皇改「斉明天皇」時代です。

東アジアの激動の波が目の前まで押し寄せてきました。

斉明天皇は自ら出陣を決意しますが…

第37代:斉明天皇期(655年~661年)

654 孝徳天皇が死去し、皇極天皇が斉明天皇として再び即位。
655 高句麗、百済連合で新羅侵攻。
658阿部比羅夫の蝦夷遠征(~661)
660 唐と新羅が高句麗討伐に向けて手を組む。
連合軍は手始めにあっという間に百済を滅ぼす。
百済はヤマトに助けを求める
661 百済を助けるため、斉明天皇、大坂(難波津)から博多(那津)へ出発。
そこからさらに筑紫に渡ったが、出発前に死亡。(68歳!

(※額田王「熟田津に船乗りせんと月待てば潮もかないぬ今はこぎいでな」…熟田津:愛媛県松山市)


♨この時代はまだ天皇が軍事の長も兼ねていたことがよくわかる。しかし、68歳で最前線に向かうって、なんかすごい。

以後、空位に

古代史講義戦乱篇:白村江の戦いはコチラ

658年、阿部比羅夫の遠征

斉明天皇の命を受けて、蝦夷征伐に向かい、北海道まで侵入したと言われています。

この件があって、東北地方において「阿部(安部)」という名前は特別な意味合いを持つようです。(諸説あり)

阿倍比羅夫はその後、白村江の戦にも駆り出されます。

空位時代(661年~667年)

皇太子であった中大兄皇子ですが、なかなか天皇になりませんでした。

皇太子のまま采配を行います。

663 白村江の戦

日本・百済連合軍が唐に大敗。朝鮮半島南西部。

古代最大の戦いと言われるが、「そうでもなかった」説も浮上中。どっちなんだ??
危機を煽って中央集権を狙った?コチラも
664 唐では則天武后が実権を握る。
667 近江大津宮へ移る。翌年に正式に天智天皇が即位。

663年、白村江の戦い

斉明天皇の意思を引き継ぐ形で大陸へ…

と思いきや、出発まで2年かかっているんですね…

そうしたことなどから、古代最大の戦争と言われる「白村江の戦」は、実は、「天智天皇がより強い中央集権国家を目指すために、危機を煽った」説というのがあります。

空位時代が長かったのは、天智天皇がカリスマ性の無さを自覚していたためとすれば、この説はなかなか信憑性が高いと感じますが、本当のところはどうなんでしょうか。

コチラ!超面白い!

天智天皇。wikipediaより。 『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ) ちなみに、天智天皇の読み方は「てんち」ではなく「てんじ」である。

667年、大津京遷都

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