2遊 「地面すれすれの小皿を馬上の高さから射るなど困難の極みだが、盛純はこれもすべて的中させた。」
「吾妻鏡」による武士の「騎射能力の高さ」を示すエピソードがあります。
なんでも、源平合戦の頃、諏訪盛純という信濃の武士が頼朝のもとに遅れて合流したため、頼朝は盛純を日和見主義として捕縛したそうです。
ある時、盛純は流鏑馬を披露する場を与えられ、悪馬に乗って15cm長の串に刺した小皿3枚を射るように命じられました。
地面すれすれの小皿を馬上の高さから射るなど困難の極みですが、盛純はこれをすべて的中させたそうです。
しかし、話はまだ終わらないのですね・・・。
頼朝は今度は地面に残った三本の串を射るよう命じ、盛純はこれも全て的中させたそうです。
そこでようやく赦されて御家人に加えられたと言うのですが、恐るべし「騎射能力」…。正直、バケモノですよね・・・。
こういう話は大体「盛り」がちですが、現在のトップアスリートたちを観ていると誇張でないのでは、と感じます。
ちなみに、諏訪盛純は伝説の武人、藤原秀郷流の伝承者です。
3左 「西国の平家は東国の源氏に勝てません。」
源平合戦の頃、東国事情に詳しい藤原範季という廷臣が、
「西国と違って、東国の武士は末端の雑用係の従者まで弓術に携わるので、西国の平家は東国の源氏には勝てない」
と述べたとあります(「愚管抄」)。
東国は軍馬の産地でもあり、彼らにとって馬を扱うことは生活の一部でした。
一方、西国では聖武朝の頃から郡司や富裕層など一部の有閑階級にしか騎射能力が期待できませんでした。
坂東では訓練すれば農民階級にも期待できたと言うから大違いです。
弓馬の強さを示すエピソードは世界各国枚挙に暇がありませんが、本国においても俘囚(帰順した蝦夷)30~40人程度が国司軍1000人に勝ったと言う記録もあります。
江戸時代初期の武家諸法度を見ても「武士」が鍛錬すべきは「刀剣」ではなく、「弓馬」の道であるように、武士にとっての「弓馬」の比重は高いのですね。(なんとなく刀剣のイメージが強いのですが。)
案の定、西国の平氏は東国の源氏には勝てませんでした。
4一 「称徳の実力と強靭な意志を甘く見るのは得策でなかったのだろう。」
743年、聖武天皇が墾田永年私財法を制定しました。
しかし、娘の称徳天皇は765年に「新たな開墾を一切凍結させる」法令を出しました(加墾禁止令)。
それまでさんざんやってきてた王臣家も、この禁令には従い、開墾ラッシュはピタッと沈静化しました。
彼らにとっても前年に藤原仲麻呂という強大な権門を軍事的に破って天皇に返り咲いた称徳女帝の実力と強靭な意志を甘く見るのは得策でなかったのだろう。
「おそるべし奈良時代の女帝」といえば、称徳天皇です。