こんにちは。
今回ご紹介しますのは、『幕末日本と対外戦争の危機』(保谷徹、2010年、吉川弘文館)です。
結論から申しますと、
下関戦争は、幕府による「横浜鎖港要求」を封じるためのものでした。
以下、読書メモと雑感です。
<プロローグ>
「下関戦争」とは1864年の長州藩と英仏米蘭の武力衝突事件です。
(本書では「下関戦争」と書かれておりますが、山川出版社の詳説日本史研究では「四国艦隊下関砲撃事件」「馬関戦争」です。)
英国本国ではもし、下関戦争を発端に日本国内の大名たちと全面戦争が生じた場合、
横浜に居留する多くの外国人、および日本海域に現存する英国艦隊が大打撃を受けると考え、
海軍本部委員グレイは外務大臣ラッセルに下関戦争自重の訓令を送り、その結果をひたすら待っていました。
こうした時代背景が歴史の重要なエッセンスであったりします。
<外圧の構造>
「可能なら非公式に、必要ならば公式的に支配を拡大」
が自由貿易帝国主義の考えでした。
1860年代に全盛を迎えていた大英帝国の初代駐日公使オールコックも、武力なしの新市場獲得を理想であるとする一方、
そのために軍事力による圧力は必要と述べていました。
<攘夷主義と対外戦争の危機>
そんなオールコックは、ハリス(アメリカ)とことごとく意見が対立していました。
しかし、アメリカが南北戦争(1861年~)で撤退したため、列強による対日外交はオールコックの主導になりました。
そして、「武力」が必要か調査している最中、第2次東禅寺事件(1862年6月)、生麦事件(1862年9月14日)が勃発します。
これによりイギリスは海上封鎖作戦を本格的に検討しました。
さらに、1862年秋、松平春嶽が「破約攘夷」を唱えます。
また、三条実美は江戸へ出向し、幕府に攘夷の誓約を要求しました。
これらの動きは、公武合体の代償という国内問題によるものでしたが、列強各国にとっては激震でした。
【この時代を教科書でチェック!】
1858 | 日米修好通商条約 開港を好まない孝明天皇に乗り、幕府非難を繰り広げる人々を大老井伊直弼は弾圧(安政の大獄)。 |
1859 | 横浜、長崎、箱館の3港で貿易が開始される。 その中でも横浜の取り扱いが最多で、取引先はイギリスが最多であった。 日本からの輸出品は生糸が8割。輸入品は繊維製品が7割。 |
1860 | 五品(ごひん)江戸廻送令 輸出品生産地と直接結びついた在郷商人が問屋を通さずに直接商品を開港場に送ったので江戸など大都市の問屋商人を中心とする流通機構が崩壊。 幕府は従来の流通機構を維持するために貿易の統制をはかり、雑穀・水油(みずあぶら)・(ろう)蝋・呉服・生糸の横浜直送を禁止した。 (ただし、在郷商人と列強各国の反対に遭う。) また、輸出に生産が追いつかず、物価は高騰していたうえに、金銀交換比率が日本と外国で異なったため、外国人は日本に銀を持ち込み、金を購入することで、大量の差額利益を得た。 結果、10万両以上の金貨が流出。 幕府は金貨の品位を下げるべく万延小判を鋳造するが、貨幣の実質価値が下がったことで物価は上昇して、下級武士や庶民の生活に打撃を与えることとなった。 その怒りから、ハリスの通訳であったヒュースケンが殺害される「ヒュースケン殺害事件」などが起きる。 ※この年、桜田門外の変で井伊直弼暗殺。 |
1861 | 第1次東禅寺事件 「ヒュースケン殺害事件」に引き続き、外国人排斥事件が多発する。 第1次東禅寺事件では高輪にあるイギリス公使館が水戸脱藩士により襲撃された。 多くの日本人は、物価上昇のシステムなど理解できるわけなく、ただ外国人排斥に向かう。 ※この年にロシアによる「対馬占領事件」が起きる。 ※この年、安藤信正により公武合体(孝明天皇妹の和宮と将軍家茂の婚姻)成功。 |
1862 | 生麦事件、イギリス公使館焼打ち事件、ロンドン覚書 生麦事件は神奈川の生麦村で江戸から帰る途中の島津久光の大名行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺害した事件、 イギリス公使館打ち事件は品川に建設中のイギリス公使館を高杉晋作ら長州藩士が焼いた事件。 幕府はさらなる混乱を恐れ、安政五カ国条約に盛り込まれた江戸・大坂の開市、兵庫・新潟の開港延期を交渉。イギリスと「ロンドン覚書」を結ぶ。 ※この年、公武合体反対派により老中安藤信正暗殺未遂事件(坂下門外の変)。これにより安藤信正が失脚。 ※また、第2次東禅寺事件により、イギリス人2人が殺害。 |
1863 | 尊攘派による攘夷実行期限、長州藩による外国船砲撃事件 前年より長州藩と朝廷は尊攘派が優位となり、幕府に攘夷実行期限を迫っていた。 やむなく家茂は1863年5月10日を攘夷実行開始と通達した。 長州藩は馬関海峡を通過する外国船に砲撃を加えた。 ※一方、薩摩藩、会津藩、朝廷内の公武合体派はひそかに尊攘派への反撃準備を整える。(→「八月十八日の政変」) ※この年、薩英戦争も。 |
「生麦事件」以後、賠償金支払いをめぐっても戦争危機がありました。
しかし、水野忠徳、小笠原長行らにより賠償金支払い断行されました。
徹底して戦争を避けた幕僚を評価すべきでしょうか。
大名行列は側方からの攻撃に弱いんじゃ。
横からピストルで撃たれたらおしまいなんじゃ。
一方、幕府は開いた港を閉鎖したい、という旨を伝えました。
列強はこの背後に朝廷があることを理解します。
小笠原長行により将軍家茂を強行的に江戸へ連れ帰る計画(卒兵入京)は反対されたため、
家茂は「攘夷実行期限」を通達せざるを得ませんでした。
占領にはコストがかかることをChinaで経験しているしな。
薩摩とは武力衝突したけど、目指すは間接統治。
しかし、そこで起きたのが長州藩による「四国艦隊砲撃事件」。
各国は報復を検討します。
その後、「八月十八日の政変」で尊攘派が失脚しましたが、
幕府はその後も、「国民の反対」を理由に横浜の鎖港を願い出ました。
しかし、各国は、「このような会談には応じない」とし、
「横浜鎖港を断行するなら戦争になる」と言います。
再び戦争のリスクが上がりました。
また、薩英戦争を経ると、日本は侮れないとそれなりに警戒しました。
後編に続きます。
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