こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「桓武天皇」時代です。
「桓武天皇」と言えば、小学生でも知っておりますね。
現在の皇統のご先祖としても知られております。
でも、決して最初から皇位が約束されたわけではありませんでした。
実際、光仁天皇即位時の皇太子は異母弟の「他戸親王」でしたし。
しかし、藤原百川らとともに、数々の権謀を経て桓武天皇が即位します。
近年の研究では「遷都」や、「蝦夷征伐」は、後ろめたい「自分の皇統の主張」という背景もあったようです。
第50代:桓武天皇期(781年~806年)
桓武天皇。wikipediaより。
【桓武天皇】…737-806。光仁天皇第1皇子。
781年即位、784年長岡京遷都。
平安京遷都は弟・「早良親王」の怨霊に悩まされていたというのが通説でしたが、近年の研究では「皇統の主張」という説が強いようです【コチラ:古代史講義】。
「遷都」、「蝦夷討伐」でやる気を見せたものの、最終的には「財政悪化」に伴い正規軍の編成さえ困難な状況に陥りました。(→805年、徳政論争)
また、32人という子供の多さが皇室の家計圧迫の原因にもなりました。
「左大臣を置かない」など、貴族を押さえた政治を行いました。
…ちなみに 正規軍をもたない国が他国からの侵略を逃れることが出来たのは、標高4000mのチベットと、武家政権が登場するまでの日本くらいだそうです。
781 | 即位。 |
784 | 長岡京に都を移す ※「仏教勢力を切り離す」のが狙いで、大寺院の長岡京移転も禁止した。現場責任者に藤原種継を指名。長岡京の地は藤原種継、桓武天皇にとっても縁のある地域であるとともに、河川による流通に便利であった。 ※紀船守、上賀茂神社、下鴨神社の賀茂大神に遷都を報告。 |
785 | 藤原種継暗殺事件⇒疑いをかけられた早良親王が捕らえられる。 【藤原種継】…藤原宇合(式家)の孫。叔父が藤原百川。従兄弟の夫が桓武天皇。桓武天皇から政務の全てを任されていたが、長岡宮の夜間工事中に射殺される。49歳。藤原薬子の父でもある。 【早良親王】…桓武天皇の12歳年下の異母弟。11歳で出家するも光仁天皇の希望で還俗、桓武天皇即位時に皇太子となる。仏教勢力と親しいことから、桓武天皇の遷都事業中止の依頼を受けていたのではないかとも。淡路島への移送の途中で死去。冤罪説。 【大伴家持】…万葉集の編者としても知られる。 藤原種継暗殺計画の首謀者であったが、事件当時は既に死んでいた。古代における藤原氏の最大のライバルは大伴氏と言われている。 |
788 | 桓武天皇夫人・藤原旅子(藤原百川の娘)が30歳で死亡 征東大使・紀古佐美、阿弖流為に大敗 |
789 | 桓武天皇母・高野新笠が死亡。(崇りではないかと疑いはじめる) |
790 | 皇后・藤原乙牟漏(平城天皇実母)が31歳で死亡。 その1週間後の落雷で式部省の南門が倒壊。そのうえ洪水も。 |
792 | 健児の制 皇太子(のちの平城天皇)が風病に。(これも早良親王の崇りと言われる。) |
794 | 皇太子妃が急病で倒れ、そのまま帰らぬ人に。疫病、地震頻発。 平安京遷都へ (→平安時代編へ。) |
784年、長岡京遷都
小学校では自分で住んでいる地域の勉強があると思いますが、
子供たちの通っている学校では「京都の川の合流」について勉強していました。
簡単に言いますと、京都の山の方から流れる「桂川」、琵琶湖から流れる「宇治川」、三重の山の方から「木津川」が合流して、「淀川」として大阪湾に注ぐ、ということです。
そして、長岡京はこの3つの川の合流地点にあり、河川交通に便利な都となるはずだったのです。
785年、藤原種継暗殺事件と早良親王
また、京都の小学校の授業で「早良親王」が出てきたのでビックリましした。
785年、長岡京造営中の藤原種継が暗殺されます。
(真犯人は大伴氏のようです。)
桓武天皇は皇太子で実弟でもある早良親王に罪をかぶせました。
早良親王は仏門に下っていた期間があり、奈良の仏教勢力との結びつきが強かったためとも言われます。
早良親王は無実を主張して断食を行いますが、
皇太子の地位は剥奪、そして葬られました。
皇太子には安殿親王(あてしんのう:のちの平城天皇)が就任します。
桓武天皇の子供は何人?
「桓武の世代までの親王は二人の女性しかいなかった。ところが(中略)桓武の皇子・皇女は何と三十二人を数える。(797年に)百姓の搾取を咎められた「親王」の大部分は実は彼ら桓武の皇子なのであった。」
桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」
奈良時代は親王不足が変則的な皇位継承の元凶でした。
しかし、平安時代は「親王が多すぎる」ことが問題となりました。
その息子たちはプライドだけは高いのですが、彼らを満たすほどポストもないので、さらに増殖する彼らの子孫は地方に食い扶持を求めるわけです。
彼らは地方では歓迎されました。なんせ「貴種」ですからね。地方豪族の娘などと結びつくことで、食い扶持を確保していくわけです。
こうしたグループから武士が生まれていくのです。(農民が武士になったわけではない。)
プライドだけは高い、というのは平将門が好例でしょうか。
彼は桓武天皇の5世孫ですので、自分が新皇を名乗る資格が当然あると考えていたのではないでしょうかね。
朝廷の繁栄を約束するはずの桓武の子孫たちが、朝廷を蝕む原因となっていくことは皮肉です。
ちなみに「日本書紀」は神代から持統天皇時代までが書いておりまして、
「続日本書紀」は桓武天皇時代までが書かれております。
792年、健児の制
健児の制(こんでいのせい)。
農民を徴兵するのではなく、郡司の子弟などを徴兵。
彼らは比較的裕福な環境に生まれたため、有暇な時間を弓馬の訓練などに当てることが出来ていた。
郡司にとっても中央とのパイプづくりにもなるため有意義。
794年、平安京遷都
「早良親王の祟りを恐れて」というのが通説のようですが、
実際に早良親王の祟りを心配したのは平安京遷都後というのが最新研究の成果らしいです。
それよりも三川が合流することによる「水害」とかの方が大きかったとか。