~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、東島誠先生の「自由にしてケシカラン人々の世紀」(2010年、講談社)です。

15世紀前半、室町時代の話です。

安定した時代であれば江戸時代的武士道が役に立つでしょう。

しかし、時代の転換期に至っては、ちょっと外れた、「自由にしてケシカラン人々」が思いもよらない活躍を見せるのではないかと思っております。

ポイント

★足利義詮、足利基氏の室町幕府「第2世代」は安定した二頭体制を行った。しかし、1367年に2人が死んでから徐々に関係が不穏に(→1438年、関東永享の乱などに帰結)。

★15世紀後半(応仁の乱後?)、京都は飢饉が生じにくい構造に。この時代、村では名主、沙汰人などと呼ばれたまとめ役が力をつける。

★頼朝が地頭制度を確立した背景には朝廷が西は平家、北は木曽義仲に囲まれ物資がとだえる危険があったことも一因。

★浮浪・逃亡の一部は徴税逃れ、行基などの僧もしかり。

★足利義政は無能ではなく、一連の事業は「ニューディール政策」だったのではないか説。

※15世紀前半は飢饉の連続でしたがが、15世紀後半に飢饉が減ったことについてはもう少し考察してみたいと思いました。

※古代史における「浮浪・逃亡」&「行基」=「徴税逃れ」の話はビックリしました。

以下、読書メモと雑感です。

【序章:江湖散人の眼~可能性としての中世~】

古代史における「浮浪・逃亡」とは貧窮農民の行動のみを指すのではない。むしろ国家によって把握されたくない富を築くに至った、新興の人々こそが「逃げる」

★行基の自発的結社を取り上げて、古代NGOについて論じた書では、行基を支持した「知識結」の母体は課税を忌避する先進地域の住人という。(僧尼になることは課税を忌避する有効な手段であった。)

★硬直した時代では「逃げる」ことで、ゆさぶりを持たせる効果がある。幕末の志士たちはその代表。遊学により既存の秩序を飛び越えて新しい時代を創造していくことができる。

★下剋上とは戦国時代の言葉ではない。既に二条河原の落書きにも見られる。

★日本がこれまで「私の権利」が育ちにくかったのは、「私」が「公」の秩序に含みこまれたから。大きいか、小さいかという概念において、代官は庶民より大きい→お上、となる。公私は対立する概念になっていない

★「江湖」とは唐の時代、禅宗を志す修行僧が江西と湖南に住む2人の高僧の間を行き来して学んだことに由来する。南北朝期、戦国時代、幕末、と志をもった人々が往来することによって人間のネットワークが新しい社会へと組み変わっていった

【第1部:「ケシカラン」世紀の可能性】

<Ⅰ.内藤湖南の「近代」とフロイトの「中世」>

フロイトの観察は細かい。鼻のほじり方、タオルの使い方、酒の飲み方、贈り物の扱い方、曖昧な言葉の多さ、抱擁の有無、街では吸息しないこと、などなど。なんか、今の日本人と一緒ではないか?【コチラも】

♨「どの指で鼻をほじった」(おそらく対象は信長)など観察している。

★さらに、日本では動物を殺すと驚かれるが、人殺しは普通。窃盗で殺されることは欧州ではないが、日本では殺される。正当防衛で殺したとしても死ななくてはならず、逃げたら他のヒトが身代わりとして殺される。堕胎は普通。女の子は自由におでかけができる、妻も自由に旅行ができる。(近代こそ抑圧?)

★我々はもはや近代人ではない。近代こそ最も悲惨な時代、という見方もされる。現代は近代を飛び越えて、中世に近いかもしれない、という状況にまで陥っている

<Ⅱ.中世に向かう現代ーあなたも君も十四世紀人?->

★もののけ姫のジコ坊は網野善彦「異形の王権」の悪党3人を合成して作成。14世紀は悪党の世紀

★後醍醐天皇の無礼講はひどい。酒池肉林。

<Ⅲ.妄想と打算ー双面の後醍醐天皇>

★後醍醐天皇の政策で唯一評価できるのは飢饉時(1321~22年)における関所停止令。

★源平争乱期、北は義仲、西は平氏に囲まれた朝廷が唯一、飢饉状態を解決できると考えたのは頼朝。そのため、生命線である伊勢を義経に握らせ、ここで叛逆が起きれば補給は途絶えるという脅しを使って、地頭システムを認めさせた。

★京都は飢饉が起こりやすく、為政者はこれを自らの政治力を示す機会ととらえる。

<Ⅳ.東アジア史のなかの1349~1350年>

日本国内の動乱期と東アジアの動乱期は見事に一致

①1349~50年は観応の擾乱勃発。鎌倉公方に基氏が就任。この頃、大規模倭寇が高麗を襲い、琉球で王位交代などが起こった。

②1367~68年は義詮・基氏死亡→細川頼之管領就任→足利義満将軍就任→応安の半済令。この頃には倭寇鎮静化。明王朝創建時期。

③1392年、南北朝合一の頃には、高麗は滅亡し、李氏朝鮮が建国。

九州における足利直冬・少弐頼尚の軍事行動時期と「倭寇」の出現は極めて一致。これは海上に明るい少弐勢が海を渡って兵粮米を略奪したのでは?しかし、それが全てではない。連動の可能性があるにせよ、魅力ある説である。

★足利尊氏、天台座主、関白二条良基が人々に混じって猿楽に夢中。彼らは新人類だ!と怒るものもいた。旧人類の代表が直義。建武式目第一条の倹約令でいきなりバサラ批判。南北朝時代は新旧の時代の転換点でもあった

<Ⅴ.1367年、2人の公方の死>

統治の時代に尊氏は不必要に。そして起きたのが観応の擾乱

★第2世代(義詮、基氏)は東西で二頭体制をとる。しかし、2人の死で再び動乱。氏満、満兼の時代を経て、持氏、成氏は明らかに京都に敵意。次世代を担う義満はまだ幼い。細川頼之はひとまずダウンサイジング。

<Ⅵ.ある禅僧の諦念ーあまりに日本的な…作法>

日本社会の人事と言えば世襲とコネ

★禅林世界における<十方住持制>はフェアな方法。ただ、日本は違う。

<Ⅶ.主体なき14世紀と天皇>

★一揆は人々を集めることはできても、既存のシステムを解体することはできない。

★ロラン・バルト「円の頂点に神聖なる無をかくす」

(♨ムムム、深すぎて理解できない…。一揆の連判状を円く書いて、真ん中は何も書かないことの意味など。)