~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

関ヶ原の戦は結果くらいしか興味がなかったが、興味をもった。

前編はコチラ】。

目次

第3章:三成と家康、水面下の経済戦争

家康は豊臣家の直轄領を削ろうとした。

①秀吉の資産を狙う家康、守る三成

★秀吉の死後、家康は豊臣家の直轄領を削って勝手に知行を行う。
★この家康の動きは秀吉も予想していて、生前、誓約書を書かせている。
★この動きを食い止めようとしたのが石田三成である。

②家康の知行乱発でもっとも恩恵を受けた、あの人物

★小早川秀秋。彼は長浜出身で、秀吉の義理の甥にあたる。一時期、羽柴家の養子となり、その後、小早川家に。

この縁組後、小早川隆景は筑前・筑後30万石を秀秋に与えることで、一時期候補に挙がっていた、「秀秋の毛利家養子就任」を阻止した。

★当初、秀吉は秀秋に直轄領の一部を相続しようと考えていたが、秀頼誕生により状況は激変。

邪魔者となり、1598年5月、越前北ノ庄15万石に転封され、筑前、筑後は豊臣の直轄領となった。

③不可解な小早川秀秋への筑前・筑後の返還

★1599年2月、五大老の連名で筑前、筑後が小早川秀秋に返還。

明らかに家康が仕組んだものであろう。これ以上、豊臣家の直轄領を削ったら大変と言うのがわかっていながら、である。

④真の狙いは三成の権力を奪うこと

★筑前、筑後は重要拠点であるため、石田三成が代官になっていた。石田三成が小早川秀秋の後の大名になるという案もあったが、現在いる重要拠点の佐和山での仕事が忙しいために見送られた。
★いずれにしても三成にとって大ダメージであった。

⑤家康の巧みな分断作戦

★越前15万石は豊臣家に返還されるのではなく、青木家に。これでさらに家康との差が開いてしまった。
★1599年、前田利家が死亡すると、「石田三成襲撃事件」が勃発する。
★これにより、石田三成は中央から失脚。佐和山城に戻った。家康はさらに知行乱発。

⑥ことごとく当たる家康のもくろみ

★1598年時点で220万石あった豊臣領は、1600年の時点で160万石程度に減らされた。
★この時期、加増されたものの中に、「石田三成襲撃事件」を起こした細川忠興もいた。

⑦「関ヶ原」のキーマンだった細川忠興

★細川忠興の妻は明智光秀の娘で細川ガラシャ。本能寺の変で謀反人の娘となってしまったために、細川忠興は丹後の山奥に幽閉。その後、秀吉の許しを得て細川忠興夫人に戻り、洗礼を受けてキリシタンに。
★関ヶ原で細川忠興は東軍に。大坂屋敷にいた彼女は石田三成の人質になることを避けるため家臣に殺させた(キリスト教では自殺は禁じられている)。このエピソードにより東軍ではさらに三成憎しとなった。

⑧石田三成襲撃事件の真相

★石田三成の大坂屋敷を襲撃したのは加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎の7人。その後、徳川家の護衛により佐和山城へ三成帰還。
★しかし、あまりにも手際が良すぎる。この時期は秀吉の惣無事令が出ていたため、私闘を行った者は厳罰されるべきであった。しかし、それがされないということは家康が黒幕であったのであろう。

⑨忠興と家康の経済的な結び付き

★細川家は室町時代から続く名門。織田の家臣団から、秀吉の与力となり、山崎の合戦後ではガラシャを幽閉して豊臣軍に。7人のうちではもっともキャリアもあった。
★また、家康への好意も見逃せない。これは、忠興が秀次と仲が良かったことから追及された「豊臣秀次切腹事件」に遡る。

⑩ただのケチではなかった家康

★細川忠興は朝鮮の役を前に秀次から黄金100枚を借りており、秀吉からすぐ返せ、と言われていた。

この時、助けたのが家康だった。半分借りようとしたところ、全部くれた。こういうところに家康が天下をとれた理由がある。

⑪忠興が首謀者だった

★また、一説では金100枚を厳しく追及したのが石田三成という説もある。

とにかく、三成と忠興の中は悪く、三成は忠興が首謀者と確信しているかのような手紙も残している。

⑫三成を失脚させた功績としての加増

★1600年2月の忠興の加増は家康の意向による。細川忠興は後世の評価よりももっと重要人物であったのであろう。

第4章:実は脆弱だった豊臣家の財政基盤

秀吉は多くの戦を行ってきた分、家臣にも大きな褒章が必要だった。

①意外に少なかった秀吉の直轄領

★領地の広さは兵の動員力に影響していた。金山銀山によって520万石の収入があったとはいえ、領地の広さは大事である。

②兵の動員力も家康の半分以下しかなかった

★また、秀吉の領地は各地に点在していた。戦争ではいかに一点に大きな兵を集中できるかが重要であり、この点で大きく家康に劣っていた。
★豊臣恩顧が崩れ、豊臣家対徳川家になると、太刀打ちできない。

③戦国時代の覇者特有の経済的ジレンマ

★家臣に忠誠心を持たせようと思えば褒美で土地を与えるしかない。そうやっているうちに深刻な土地不足に陥った。これは信長の頃から深刻化していた。

④信長がやろうとしていた戦国の土地改革

★信長は領地制度を平安時代のものに戻すことを考えていた。

⑤信長が「国替え」を頻発した理由

★信長は柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、佐々成政など主な家臣に何度か国替えを命じている。地域に根を張っていた豪族も一緒である。これはいつどこに国替えになるかわからない、平安時代までの「国司」と同じシステムである。これは武家の常識を完全に打ち破るものであった。

⑥本能寺の変を引き起こした土地改革

1582年6月、本能寺の変。

いつまでも光秀を特別扱いするわけにもいかず、毛利を落とした後に出雲、石見への国替えを命じた。

そのやり方に慣れていない光秀は謀反を決意した。

光秀は丹波、近江の治政に熱心で、亀岡では民に慕われていた。

⑦より深刻になった秀吉の土地不足

★信長の後を継いだ秀吉はより深刻な土地不足。秀吉はいわば仲間、同僚たちを部下として指揮して天下をとったわけで、大盤振舞しなくてはならなかった。

⑧大盤振舞で天下統一したツケ

★1585年の四国遠征では、ほぼ秀吉直轄軍で制覇したにも関わらず、大盤振舞した。

この大盤振舞が秀吉の特徴であり、これにより多くの武将が秀吉の下に集まり、秀吉の天下統一が加速度的に進んだ(しかし、直轄領は少ない)のである。

⑨秀吉が出した「天下惣無事令」の矛盾

★1585年、惣無事令を発布。1587年、伴天連追放令。
★惣無事令によって、これ以上の私闘を禁じたことで天下は安定したが、「一所懸命」を是として武士は目標を失なった。
★伴天連追放令時も、土地は国のものということを明確に打ち出している。
★領地替えを拒んだものは、ことごとく処分した。

⑩秀吉が征夷大将軍にならなかった本当の理由

★秀吉が征夷大将軍ではなく関白になったのは長らく謎とされてきたが、武家政権の終焉を目指していたのではないか?

⑪大量の金銀を大名たちに配った裏事情

★1589年。もう、配る土地がなかったとも言える。

⑫官位を大乱発した背景にも…

★これも土地がないため。官位を与えることで武家社会からの転換を図った。

⑬「覇者のジレンマ」としての朝鮮の役

★明に打って出るのは信長のアイデアでもあった。
★1585年、関白就任直後から秀吉も口にしている。まだ九州平定する前の事である。
★もう土地がなかったこととも関係。
★南蛮商人からは明や朝鮮は大したことない、と聞かされていた。

第5章:天下取りに向けた家康のしたたかな経済戦略

本能寺の変のどさくさで甲斐・信濃を得たのは家康の真骨頂。

①「覇者のジレンマ」がなかった家康

★信長や秀吉は「天下は自らとる」と考えていたが、家康は受動的であった。
★信長や秀吉には代表的な大きな戦いがあるのだが、家康はあまりない。
★家康は大きな勢力には対抗せず、辛抱強く接し、巨大勢力同士が争って弱体化したところを一気に攻め込むという火事場泥棒に徹していた。

②桶狭間の戦いで漁夫の利を得る

★家康を最も飛躍させたのは「桶狭間の戦い」と「本能寺の変」である。

★桶狭間の戦いでは今川家が混乱しているところ、人質から抜け出し、独立。今川領の三河を平定、その後、信長と同盟を結んだ。

③「本能寺」後、したたかな家康の真骨頂を発揮

★本能寺の3ヶ月前に、甲斐、信濃は信長のものとなっていた。このどさくさに紛れて甲斐、信濃に進出。

♨これは覚えておくと良い。甲斐の金山は大きいだろう。

④「小田原攻め」でも不義理を働いて大躍進

★家康と北条は仲間であったが、ここでも秀吉軍について、北条の支城を取りまくる。
客観的に見て、この戦いでもっとも軍功のあったのは家康であり、秀吉も家康に加増せざるを得ない。
★そこで、関東を与えるという妙手を繰り出した。

⑤転機となった関東転封

★しかし、これにより家康は5か国150万石から、8か国250万石となる。

♨僻地に飛ばされたような印象を受ける意見もあるが、関東は北条家によりかなり栄えていたという説も。

⑥家康転封の秀吉の狙い

★秀吉は少なくとも関東を安定化させるには時間がかかるであろうと読んでいた。

⑦秀吉の誤算

★しかし、小田原での籠城戦に際して、関東の主な豪族はみな死んだので、家康の統治は思ったよりスムーズに進んだ。家康に反抗できるほどの豪族は残っていなかった。
★また、家康は北条家の旧臣を登用することで、これを取り込むことにも成功した。

⑧なぜ秀吉は家康に江戸居城を勧めたのか

★後年の発展を見ると、江戸を選んで正解だった。鎌倉では狭すぎるし、小田原では西過ぎる。
★湿地帯であったため開発に時間がかかるであろうとみていた。

⑨家康の不気味な財政力

★しかし、家康は当時、甲斐の金山なども所有しており財力には自信があったと思われる。

⑩秀吉の妨害工作をうまくクリア

★秀吉は大坂城普請、伏見城建築などを家康に命じ、その財力を削ろうとした。秀吉死後3年は京都にいて政務をとるように、というのもあった。
★しかし、優秀な家臣団もおり、家康がいなくても領内整備は進み、秀吉の想像以上のスピードで態勢を整えた。

⑪経済効率が抜群に高かった家康の拡大戦略

★このような戦略には忍耐力が必要であるが、これは幼少期の人質として各地を転々としていた経験によるものであろうか。

⑫「関ヶ原」を前に有利な状況に

★徳川250万石のうち、ほとんどが直轄領。10万石以上のものは井伊直政、榊原康政、本多忠勝のみ。家康の懐刀と呼ばれた本多正信ですら1万石。これは家康がケチだったのもあるが、家臣に恩賞をそれほど与えなくてもよいような無難な戦争しかしてこなかったということでもある。

第6章:なぜ関ヶ原の戦いは数時間で終わったのか

軍需物資で劣る家康が勝つには野戦。三成が篭城しないよう計画した。

①家康が抱えていた「江戸」問題

★当時の中心は大坂、堺、京都。江戸は辺鄙な場所で、のちの「享保の改革」は江戸の生産力を上げて、大坂経済圏から自立しよう、とするものであった。
★特に当時、「軍事物質」を調達できない、という問題点があった。

②流通ルートというアキレス腱

★当時、西から東への流通ルートは瀬戸内海→堺、大坂→伊勢湾と、→琵琶湖。このどちらも石田三成が握っていたため、

豊臣家との関係が悪化してこのルートを押さえられると家康は窮地に陥ってしまう

③当時の軍需物資を支えていた南蛮貿易

★秀吉軍の鉄砲玉の鉛は55%が外国産のものだった。(タイなど。)

④三成が「堺」を押さえていたことの重要性

★当時、交易を行っていた港はいくつかあったが、そのうち一番東が堺。堺より東には行けなかった。
★ここを三成が抑えていたことは大きい。津留の記録はないが、家康が軍事物資の調達に苦労していたという記録はいくつもある。

⑤鉄砲の産地「近江」も三成の支配下に

★北近江には「国友村」という工業生産地帯がある。ここは古代、大陸から渡ってきた鍛冶職人が帰化して住んでいた兵器工場地域である。戦国時代、鉄砲の1つは堺に、もう一方のルートではここに伝わり、すぐ製品化され、一大製造地となった。
★のち、信長の支配下でさらに発展し、秀吉、三成と受け継がれた。三成が関ヶ原で使用した鉄砲は全て国友村製である。
★関ヶ原の5か月前に家康から大砲15問の発注があったが、これに気づいた三成は製造を中止させている。

⑥家康が小早川秀秋に筑前・筑後を返した最大の理由

★堺、近江を押さえていた三成であるが、その前は筑前・筑後も押さえていた。筑前・筑後が小早川の手に渡ったところで家康の支配が及んだわけではないが、三成に所領されるよりはマシであった。

⑦「関ヶ原」の謎を経済面から見てみると…

★それでも三成の方が有利。家康が勝てるのは大量の兵を一度に動員できることくらい。
★豊臣家との直接対決なら勝てるが、豊臣恩顧が豊臣方についてしまえば、元も子もない。そのためにありとあらゆる手段を講じて、豊臣恩顧を分裂させた。
軍需物資で劣る家康が勝利を収めるには、攻城戦を避け、「野戦で一気に決着をつける」ことである

⑧なぜ家康は三成に挙兵する隙を与えたのか

★関ヶ原の戦いはざっくり言うと、
1599年閏3月 石田三成襲撃事件
1600年6月 上杉景勝が上洛しないことを理由に秀頼の名のもとに号令をかけて上杉討伐に家康自ら出陣。
1600年7月 三成挙兵。他の武将にも働きかけ家康討伐宣言。
1600年9月 家康軍と三成軍が関ヶ原で激突。

★わざわざ自ら出陣したところを見ると、三成の挙兵をおびき寄せたのであろう。
★放っておいても、家康の影響力は増し、三成の影響力は減っていたであろうが(※ただ、家康死後はどうなるかわからないよね。)経済的弱みがある以上、これを放置しておくわけにはいかなかった。まして、秀頼が成人してしまえばより厳しい状況に。そう考えると今しかない。

⑨なぜ家康はギリギリまで動かなかったのか

★三成が挙兵したのが7月10日。それを受けて小山評定を行ったのが7月25日。その後、一部では戦闘がはじまるが、家康は一度、江戸に戻っている。
★そして、9月1日に再出発。家康が一番恐れたのは、三成が大坂城に籠城することであったからである。
★よって、三成軍が大坂に戻れないくらいの場所までおびき出す必要があった。

♨実際に大坂城籠城説も出たが…

⑩なぜ真田は徳川の大軍を足止めできたのか

上田城の戦いで秀忠が足止めを喰らった原因は、玉の不足を恐れて鉄砲を使わなかったせいもあるだろう

⑪なぜ家康は不利な陣形のまま決戦に挑んだのか

★西軍は山の上にいる。東軍はその丘陵地に囲まれるようにいて、まさに袋のネズミ。明治陸軍を指導したドイツの陸軍参謀メッケルも「これは西軍の勝ちだ」と言っている。
★籠城戦を避けるためにはこうせざるを得なかった。小早川秀秋の裏切りがあったにせよ、結果的に、西軍は山から下りられない状況に。
★家康もギリギリの戦いをしていた。

♨関ヶ原布陣「創作説」というのもどっかであったな…

⑫なぜ関ヶ原の戦いは数時間で終わったのか

★高地は戦いには有利であるが、軍勢が崩れ出すと逃げ道がない。14-15時間で終わっているが、逃げるところをバッサバッサやられることになった。

⑬最高に経済効率のいい戦い

★当時、関ヶ原に参加していない大名たちも東軍西軍にわかれ、各地で戦闘するほか、籠城戦にも備えていた。しかし、一瞬で勝敗が決まったため、西軍の他の武将は一気に戦意喪失し、ほとんど抵抗することなく投降。真田昌幸も然り。

わずか1日で630万石が家康のものとなった
各地の諸将への加増約束の大半は反故にされたが、楯突けるものなどいなかった

⑭「関ヶ原」後、現実主義者の本領を発揮

★家康は秀吉のような武家社会を否定するような考えはもっていなかった。そのため、征夷大将軍にもすんなりおさまった。
★しかし、「大名の転封」という制度は上手に享受した。ただ、毛利、島津、前田のような強い大名に対しては無理に転封させるようなことはしなかった

関ヶ原の後、徳川家は800万石となった。2位の前田家ですら120万石。

徳川幕府が260年以上続いたことも、徳川家が薩長に滅ぼされたのも全て関ヶ原の戦いが原因。

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