~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「774年、東北三十八年戦争」です。

805年の徳政相論で一時、遠征は中止となりましたが、

嵯峨天皇時代の811年、文室綿麻呂により戦争は終結します。

(802年のアテルイ降伏が最後ではない。)

前編はコチラ

「774年」以降

774陸奥国の海道蝦夷が桃生城を襲撃し、「東北三十八年戦争」が開始。
776志波村蝦夷と出羽官軍の戦い(~778)
780伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱

帰順していた伊治呰麻呂が普段から彼を侮蔑していた道嶋大楯、及び、上司の按察使、紀広純(死去した大伴駿河麻呂の後任)を伊治城にて殺害。

これに対して朝廷は征東大使として藤原継縄を派遣。しかし、なかなか軍を動かせず、しびれを切らした光仁天皇が、藤原小黒麻呂に交代させる。

★かつて伊治呰麻呂とともに官位を授かった 吉弥侯伊佐西古 (きみこのいさせこ)も朝廷から離反。小黒麻呂と戦う。
781桓武天皇即位
784大伴家持を征東将軍として征東軍を立ち上げる。

★この頃アテルイはすでに「賊師」として史料に登場。
785大伴家持死去。
藤原種継暗殺事件。
これらにより征東軍は自然消滅。
788征東将軍に紀古佐美を任命。
789紀古佐美軍と蝦夷、戦闘開始。アテルイの活躍により蝦夷側の勝利。
790坂上田村麻呂(34歳)が征東使幹部に抜擢。
794この頃、戦が終わる。
796坂上田村麻呂、陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼務。奥羽を束ねる最高行政官となる。
797坂上田村麻呂、征夷大将軍に任命。
801坂上田村麻呂、現地に向かう。
802アテルイ、磐具公母礼(いわとものきみもれ)、500人を率いて降伏
田村麻呂は2人の助命および、未服属の蝦夷を服従させる役割を担わせたいと願い出るが聞き入れられず。

★この頃、胆沢城造営始まる。
803志波城造営。東北最大級の城柵
805徳政相論(注:「論争」ではない)

★藤原緒嗣、菅野真道の議論。藤原緒嗣の主張により「軍事と造作」停止が決定。
(もちろんこれは出来レース。)

→東国からの鎮兵派遣停止となり、陸奥国内からの兵役に転換。
810薬子の変

★坂上田村麻呂の推薦で文室綿麻呂が陸奥出羽按察使に抜擢され、多賀城に赴任。
811文室綿麻呂、嵯峨天皇に許可を得て、蝦夷を征す。

★陸奥国の鎮兵削減を実施。志波城撤廃。コストカットを行う。

★主要人物

伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)

朝廷に帰順していたが、780年、兼ねてから彼を侮蔑していた道嶋大楯と、伊治呰麻呂の上司に当たる按察使の紀広純を殺害した。伊治呰麻呂の乱として知られる。

紀広純(きのひろずみ)

774年、鎮守副将軍として大伴駿河麻呂と共に蝦夷参戦。その後死去した駿河麻呂に代わって按察使となっていたが、戦局の打開を目指して伊治城の北方に新たに城を作ろうと伊治城に入ったところ、部下である伊治呰麻呂に殺害された。

道嶋大楯(みちしまのおおたて)

780年、伊治呰麻呂の乱で紀広純とともに殺害される。藤原仲麻呂の乱で活躍した伝説的な武人、道嶋(牡鹿)嶋足は親族と考えられる。

藤原継縄(ふじわらのつぐただ)

藤原武智麻呂の孫、藤原豊成の次男。道鏡政権で昇進。のち平安京遷都に深く関わったという説もある。780年の伊治呰麻呂の乱の討伐に向かうため征東将軍に任命されるもなかなか出陣せずその職を解かれる。

藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)

北家。藤原房前の孫。藤原継縄の後を受けて征東将軍に。

光仁天皇

東北三十八年戦争は彼の代で開始された。

コチラも

吉弥侯伊佐西古(きみこのいさせこ)

伊治呰麻呂に呼応して乱を起こす。彼もまた朝廷に服従していたが、同時に差別も受けていたと考えられる。伊治呰麻呂の乱ではこういった蝦夷たちが相次いで離反した。

桓武天皇

781年に即位。大伴家持、紀古佐美を経て、坂上田村麻呂を征夷大将軍に抜擢。指揮系統を一本化する。805年の徳政相論で蝦夷征伐と造都(軍事と造作)を停止したが、これは自身が立ち上げた事業を幕引きするための演出であったと考えられる。この時には国家財政の窮乏と民衆の疲弊が強かった。

♨桓武天皇に近いはずの藤原緒嗣(式家藤原百川の息子)が桓武天皇の始めたことに苦言を呈すのは、普通では考えられないと思っていたけど、やはり。

大伴家持

万葉集の編纂で名前が挙がることが多いが、武人。藤原仲麻呂暗殺計画に加わったとのことで左遷されていた時期もあったが、のちに昇進。征東将軍となった。しかし、就任後間もなくに死亡したために蝦夷攻撃はならず。藤原種継暗殺事件にも関与したと考えられる。

アテルイ

784年には既に「賊師」として史料に登場。蝦夷側最大のヒーロー。紀古佐美を打ち破る。802年に降伏。田村麻呂の助命嘆願虚しく処刑された。

紀古佐美

733~797。征東大将軍となるもアテルイに大敗。

坂上田村麻呂

wikipedia

758-811年。桓武天皇に重用され、征夷大将軍に。多くの蝦夷を打ち破る。802年、降伏してきたアテルイ、モレの助命嘆願を願うが聞き入れられず。清水寺建立でも知られる。810年の「薬子の変」でも活躍。811年に死去したが、上皇側であった文室綿麻呂の素質を見出した。娘の家系は源氏につながる

文室綿麻呂

wikipedia

薬子の変では敵方であったが、坂上田村麻呂に見出されて征夷大将軍に。東北三十八年戦争を終結させる。この時の遠征は陸奥出羽国内の負担だけで行われており、国家の総力をつぎ込んだ桓武朝の時とは異なる。戦後、奥羽の民衆の負担にふれ、軍団兵士の大幅削減を申し出た。志波城も廃止。

その他

★墓制や言語などから見て、宮城県の大崎平野から山形・秋田県境あたりを結ぶ地域が、境界領域であったと考えられております。【地図

○のあたりが、蝦夷の本拠地であったと考えられております。

Map-It(無料地図サイト)より拝借。

★この戦争後、蝦夷たちが形成していた社会秩序(比較的フラットな構造社会と考えられる)は強制的に解体され、多数の蝦夷が故郷から離され倭人との同化を迫られました。

★蝦夷系豪族は支配機構への登用が進み、平安時代には独自の政治秩序が形成され、安倍氏、清原氏などが成長しました。

★840年代~850年代にかけて陸奥北部では「俘囚」と呼ばれた蝦夷系住民たちの相互対立、小規模な反乱などが頻発し、不安定な社会状況が続きました。

★三十八年戦争がその後の東北地方にもたらした影響については、今後も研究する必要が有り。

次章は平城太上天皇の変