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☞【藤原基経台頭】『866年、応天門の変』(古代史講義戦乱篇⑫b)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「866年、応天門の変」です。

前編はコチラ】:応天門の変まで

contents
①応天門の変まで

②応天門の変
③応天門の変の影響
★主要人物紹介★

②応天門の変

866年

閏3月10日応天門が炎上した。
7月政府は現状を把握できず、占いの結果、海賊による国家襲撃をイメージ。

★一方、伴善男は犯人を源信と考えており、右大臣藤原良相と諮って源信を逮捕した。良相は近衛中将の藤原基経をして源信の邸宅を包囲するよう命じたが、基経はすぐに良房に知らせる。寝耳に水だったのは良房も天皇も同じ。源信は嫌疑をかけられたことに傷つき、出仕しなくなった。
8月3日大宅鷹取(おおやけたかとり)という人物が伴善男、中庸(なかつね)父子が犯人であると密告
8月7日場女潮は勘解由使局へ召喚され、参議・南淵年名の尋問を受けた。
8月19日清和天皇は藤原良房に天下の政を一任。

※良房は2年前には大病と老化を理由に辞退していた。
8月29日伴善男の息子、中庸が収監。

伴善男の僕従、生江恒山(いくえつねやま)と伴清縄(きよただ)が密告者の大宅鷹取の娘を殺害した嫌疑で拷問される。

★「密告(3日)」→「殺害(29日)」と書いたが、「殺害」→「密告」の順であったと見る説が多い。事情を知るものの口封じとも考えられている。
9月22日審理の結果、主犯として伴善男、中庸、共謀者として紀豊城(とよき)、伴秋実(あきざね)、伴清縄の5人が斬刑。ただし、天皇の「思うところ」により遠流となった

さらに伴氏、紀氏、あわせて8名が連座により配流となった。
12月5日良房弟の右大臣良相は辞表を提出。(みとめられず右大臣にとどまる)
伴善男は財産全没収。
藤原基経は4階級昇進。先輩7人を超えて中納言に。
つまり、「伴善男&藤原良相」vs「源信(&藤原良房)」という構図。

源信が逮捕されていたら、伴善男&藤原良相の思うツボだったけど、良房の養子、藤原基経が彼らの策略を察知した。

彼にとって見ても藤原宗家の地位が良相に移りかねない事態だったしね。

翌867年には右大臣・藤原良相は死去、

さらに翌868年には伴善男、源信が死去します。

③応天門の変の影響

変の前後の閣僚変遷

866年7月867年末
太政大臣
藤原良房藤原良房
左大臣源信源信(出仕せず)
右大臣藤原良相
大納言平高棟
伴善男
藤原氏宗
権中納言藤原氏宗
中納言源融源融
藤原基経
参議源生
南淵年名
源多
藤原良縄
春澄善縄
大枝音人
藤原常行
藤原基経
源多
源生
南淵年名
藤原良縄
春澄善縄
大枝音人
藤原常行

応天門の変で藤原基経が出世。これは、良房から基経への移行に向けられたものである。

古代豪族伴氏・紀氏

旧来の豪族・伴氏、紀氏の要人も流罪となり、勢力を失った

(※注釈:大伴氏は伴氏と名前を替えていました。理由は淳和天皇が大伴親王と呼ばれていたので、同じ名前を名乗るのは心苦しいとのことで。)

藤原氏と大伴氏(伴氏)の争いは歴史が長かったね…

★主要人物紹介★

伴善男(とものよしお)

★864年、良房が病気の頃、噂に過ぎない源信の謀反を声高に主張した。(そもそも、伴善男にとって源信は目の上のたんこぶ)

★応天門炎上では天皇、太政大臣に「無断」で源信を召喚しようとするなど、周囲への配慮を欠く行動が多かった。

それらの行動は他の閣僚から見て閣僚不適格とみられていたのではないか

藤原氏の政敵というと「悲劇の…」というイメージがあるかも知れないけど、伴善男に関してはそうでもなかったのかもね…。
「サイコパス」とは攻撃型の人だけではなく、一見優秀な人が「サイコパス」であったりする。もしかすると伴善男もそうだったのではないか、と思う。
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★自らの氏の名前に由来する応天門(大伴門)を焼くとは考えにくく、放火に関しては冤罪の可能性は高いのでは。

★しかし、最後は天皇の強い政治的判断によって断罪された。

★868年、配流先にて落馬事故で死亡。その後、「御霊化」した。

伴中庸(善男の息子:なかつね)

★現時点で火災の真相は「不明」。しかし、従者が主人の単独犯と自白しており、中庸が放火した可能性もあり得る?

源信(左大臣:みなもとのまこと)

★伴善男により嫌疑をかけられ、ショックで出仕しなくなる。

★一度は放火犯とされたが、密告者の勤める備中国は弟が権守を務める国であったことから、その力を使って攻勢に転じた?

藤原良房(太政大臣:ふじわらのよしふさ)

★藤原冬嗣の息子。

★良房の関与は善男による源信の嫌疑追及行動への対応以降と考えられ、最初から変に関わっていたとは考えにくい。(全て良房の陰謀とするのは間違い)

★そもそも変の一年半前に重病であった。

この機会に善男を閣僚から排除しようと考え、迷う清和天皇を誘導したのではないだろうか

同時に、藤原宗家が弟のものになることも防いだのではなかろうか

藤原良相(右大臣:ふじわらよしみ)

★良房より10歳下の弟。キーパーソンとして注目されている。

★864年、娘を清和天皇の后にしており(→天皇の外祖父になる可能性)、息子の常行は基経と同じペースで昇進。

良房と良相はライバルと考えられ、良房が善男を排除したのには、善男と仲が良い良相も排除する目的があったのではないかと考えられる。(別説もあり。良房は良相を後継者にしようとしていたが、応天門の変で源信を独断で逮捕したことに嫌気)

★変ののち、結果的に引退。多くの所領は貞観寺に寄進。

清和天皇

★応天門の変ののち、「天下の政」を良房に託す。

★応天門の10年後、平安京の中心、大極殿などが炎上。応天門の変の再来が想起されたが、政変には至らなかった。すでに政治が安定していたからであろう。

★しかし、桓武天皇時代から大事にされてきた大極殿が焼け落ちたことで、清和天皇のショックは大きく、体調を崩し、のちに9歳の貞明親王に譲位。(陽成天皇の誕生)

海賊

★変の前後で活発化。

★伴氏、紀氏と海賊の関係を説明する書も。(松原弘宣「海賊と応天門の変」2004)

https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I5453112-00

★この時期、唐人が瀬戸内海の関所を通過して京まで到達していること、新羅との関係悪化などとの関連を説明する書も。(山崎雅稔「貞観八年応天門失火事件と新羅賊兵、2000)

https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I5645762-00

★火山噴火や飢饉、海賊が清和天皇らへ危機感を抱かせていたという説。

藤原基経(参議:ふじわらのもとつね)

★事件発生後、藤原良相に源信を捕らえるように命じられるが、天皇や太政大臣の許可を得たのか問い直し、良相の行動をすぐに良房に知らせた。

♨すぐに良相の陰謀に気づいたのではないか?という説。

★事件後、スピード昇進。良相の息子、常行を寄せ付けず。

結局、機転がきくんだな。

伴大納言絵巻の謎:コチラも是非。

次章は菅原道真左降事件