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☞【藤原氏陰謀説を一蹴】『901年、菅原道真左降事件』(古代史講義戦乱篇⑬)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「901年、菅原道真左降事件」(=昌泰の変)についてです。

901年、「醍醐天皇を廃位して異母弟の斉世親王を擁立しようとした」との罪で菅原道真が大宰府に左遷されました。

これには①左大臣藤原時平の陰謀説、②源善が廃立を画策した説、③宇多法皇が廃立を画策した説、④宇多法皇、源善、道真が廃立を画策した説、⑤醍醐天皇の過剰反応説などが呈されているものの、真相は不明です。

しかしながら、「①藤原時平陰謀説」は後付けの要素が強く、「宇多法皇と醍醐天皇の確執に巻き込まれた」という説が有力視されているそうです。

以下、 『古代史講義戦乱篇』(東洋大学文学部教授、森公章先生)を参考にさせて頂きました。

index
①★略年表★

②★主要人物★
③★まとめ★

①★略年表★

887宇多天皇即位。
888阿衡の紛議。
890橘広相死去。
891藤原基経死去。
892菅原道真、参議に。
894寛平度遣唐使計画。
896菅原道真、中納言に。
897宇多天皇が醍醐天皇に譲位。
898宇多上皇により時平、道真への内覧が開始されるが、反対する他の納言が政務に参加しなくなったため、道真が宇多上皇をして混乱収拾を図る。
899菅原道真、右大臣に。三善清行は道真が貴種ではないことを理由に辞職を迫る。
901菅原道真、大宰府へ左遷。
903菅原道真死去。
923菅原道真、右大臣に復位。正二位を遺贈。

②★主要人物★

菅原道真(845年生まれ)

★894年の「遣唐使廃止」で知られるが、元々は宇多天皇の意向に従い、遣唐大使を拝命していた。しかし、在唐日本人僧の書状の全文が公開されず、情報不足であることから、公卿・博士に再考するよう求めているうちに、自然消滅した。

(※そうこうしているうちに「901年、昌泰の変」で自身が失脚、「907年唐滅亡」で遣唐使が中止に。)

★宇多天皇と道真は親密な関係にあり、その親密さが「昌泰の変」の一因でもあると考えられている。

★903年に大宰府で死去。その後、怨霊となったとされ、923年に右大臣に復位、左降の宣命を焼却するなどの措置もとらた。これには醍醐天皇の慙愧の念をうかがわせる。

醍醐天皇(885年生まれ)

★宇多天皇の息子。道真を左遷させた。

★897年、宇多天皇(867年生まれ、31歳)より譲位。この時、醍醐天皇は13歳。左大臣藤原時平(871年生まれ)、右大臣菅原道真(845年生まれ)との関係は良好であった。

★901年、菅原道真を大宰府に左降。宇多上皇への不和、不信感が原因の1つではないかと考えられる。(後述のように弟:斉世親王と菅原道真の娘:寧子が結婚したことで、自分が追い落とされるのではないかと危機感を抱いた)

★藤原時平とともに改革を進め、醍醐天皇の治世は「延喜の治」といわれる。

斉世親王(ときよしんのう:醍醐天皇の異母弟:886年生まれ)

★道真の娘:寧子と婚姻。醍醐天皇は宇多上皇と道真の深い関係から、自分が追い落とされるのではないかと危機感を抱き、昌泰の変につながる。

★昌泰の変ののちは、仁和寺で修行。

源善(生没年不詳)

★嵯峨源氏。出雲権守。右近衛権中将として道真の下僚。斉世親王擁立に関与したという説もあるが、具体的にどのように関与したのか定かではない。

★道真は昌泰の変に際して、「自分は陰謀を企てたことはないが、善の誘引を逃れることができなかった」と述べたという話もある。(扶桑略記)

★昌泰の変で処罰。

藤原時平(871年生まれ)

★藤原基経の息子。道真よりも先に参議・中納言になっており、実は宇多天皇時期の諸改革は彼によるところも大きい。醍醐天皇のもとでも活躍。

★「大鏡」などには「昌泰の変」における、「時平陰謀説」が書かれているが、真相は不明。少なくとも弟の忠平と道真の関係は良好。(のち忠平の子孫が摂関家を継承していく。)

★醍醐天皇地獄説話や、時平悪人説が喧伝され、怨霊である道真は天神様に転化し、今日につながる天神信仰が成立していく。

宇多法皇(867年生まれ)

★道真が讃岐守で、光孝天皇が崩御の際、臣籍降下の身から親王に復帰して、宇多天皇となる。この時21歳。

★即位後、基経に「関白」を依頼しようと「阿衡の任を以って卿の任と為せ」と言ったところ、「関白」の定義が確立していなかったために、一悶着おこり、天皇の真意を測りかねた基経は半年以上も仕事に来なかった。

(基経は「阿衡」=「形式だけの役職」と勘ぐった)

★宇多天皇は起草者の橘広相を処断しようとしたが基経との和解により事件は収束した。その際に道真も活躍している。

★藤原基経死後は菅原道真を登用。改革を進め、宇多天皇の治世は「寛平の治」と称される。

★宇多天皇のもとで「国司の受領化」が完成し、地方進出を図る王臣家の活動が抑制された。これは道真ではなく、良吏として名高い「藤原保則」によるところが大きい。また、他の改革も道真が起草したという例は意外と少ない。(藤原時平によるものが実は多い。)

★昇殿制を整備、拡充。官僚機構のあり方も画期をなしている。

★31歳で醍醐天皇に譲位。この際、道真とだけ相談している。

三善清行(847年生まれ)

★899年2月、道真をライバル視する三善清行が道真に辞職を要求する。占いもそれを後押ししていると指摘。

★清行は菅原道真に試験を落とされたこと、清行の推薦状に「超越」と書かれた言葉を道真が「愚魯」と訂正したなど、折り合いが合わなかった。

★901年は革命の起こる年であることも主張。道真を追い詰めた。

★のち(914年)、「意見封事十二箇条」を提出。

藤原基経(836年生まれ)

道真との関係は極めて良好であった。道真は基経の為にさまざまな文書作成に奉仕しており、讃岐守となったとき(886年)には道真の為に餞別の宴まで開いてもらっている。

※讃岐守となったことは「左遷ではない」と道真本人が言っている。

★「阿衡の紛議」において道真に、①阿衡は修辞的なものであるからこれが問題となれば、のちに文章を作るものにとって支障になること、②橘広相は宇多天皇養母淑子の承認も得て、娘も入内させて寵愛されていること、③藤原氏の功績は大きいが近年は少しものさびしいこと、などから穏便な解決を求められた。これがどれほど効果があったかは定かではないが、紛議は和解に至る。

★阿衡の紛議から3年、891年死去。

橘広相(たちばな の ひろみ:837年生まれ)

★阿衡の紛議(888)のもととなった文章の起草者。

★890年に死去。後任には菅原道真。

★③まとめ★

★遣唐使は菅原道真によって停止されたわけではなく、うやむやなまま自然消滅した!!
★菅原道真の功績は意外と少ない!!(時平の功績が意外と多い!!)
★菅原道真左遷は藤原時平の陰謀とは言い切れない!!(醍醐天皇の疑念が大きい!!)

次章は将門・純友の乱