中西輝政先生といえば、「ヴェノナ文書」の研究でも知られる(江崎先生の書籍は【コチラ】)。
令和で脚光を浴びた中西進先生とは違うので注意。
ちょっと日本を過大評価しているのではないか?という点と、著者の思い入れは理解できるが、理論の部分が弱い印象。
以下、読書メモ&雑感。
まえがき
★占領下に持ち去られたもの(つまり日本では読めない明治大正期に書かれた書物)を読んで、日本の真の国民性に気づかされた。
★国際政治を究めていくと、文化と文明が人間や世界の歴史を動かす基本的な要因だと気づいた。
第1部:文明
<現代日本人だけが知らない「日本文明」の存在>
日本文明は他の世界主要文明と違い、「1つの国で1つの文明をなしている」という世界に類例のないケースだとされる。
※世界の6(7)大文明とは…(「文明の衝突」ハンチントン教授) ①西欧キリスト教文明 ②ロシア正教文明 ③イスラム文明 ④ヒンズー文明 ⑤中華文明 ⑥日本文明 ⑦中南米ラテン・アメリカ文明
日本文明は文明史学者の通説として世界の大文明の1つに位置付けられていることを日本人はもっと認識しないといけない。
<正しい文明観から日本の「生き筋」が見えてくる>
多くの文明学者が、日本だけはまったく別の文明だ、という。
中華文明圏と比較すると、根幹にある精神、文明の魂が著しく異なる。 とすれば、その日本文明の根幹には天皇という存在がある。
(♨ん?なぜ天皇の存在と断定?)
この体系によって、ほかとはまったく違う宇宙観が成立している。
<世界がグローバル化しても、「日本文明の本質」は変わらない>
日本文明の系譜を考えれば、「この国のかたち」は徹頭徹尾、「庶民の国」。
「時代の要請」によって上からもたらしたものや、外来のものに対する独特の対応の仕方は、この「庶民」なるものの本能の発露。
つまりこの非常に深い意味での「庶民性」こそ「我が日本文明」として誇るべき特質だと思う。
♨他国にも庶民はいるが…
<日本の歴史は徹頭徹尾、庶民から生まれる>
歴史を切り開くと言う部分では庶民が主役となることはないが、歴史を後ろから追いかける時の日本の庶民は、実に深い日本の文明的特質を体現し、それを深いところで変容させる。
知識人たちが「時代の要請」によってもたらしたものでも、結局、「文明としての日本」に合わないものであればためらいなく投げ去る。
日本の文明史には、1万年近くもじっと同じことをしていられる「縄文的なるもの」と、わずかな期間に物事を激変させる「弥生的なるもの」という、文明論的に大きく異なる2つの本質が交錯している。
♨(ん?ん?「弥生的」=「わずかな期間に物事を激変」という考え方に異議あり。稲作も長い期間を経て根付いたものだし。もっとも2011年レベルだとこういう認識なのか?)
<日本文明のもつ超システム、「瞬発適応」>
略
<日本人には危機に対処する力が間違いなくある>
略
<その「変換装置」はどこにあるのか>
「日本は漢字を取り入れたから中国文明の周辺文明」なのではなく、漢字をもとに万葉仮名、平仮名、片仮名を発明することで、中国文明とは異なる日本文明がすでにそれ以前から独自のものとしてあったことを明らかにしている。
※うーん・・・。単にめんどくさかったからでは…。
<「神は自分の心に宿る」という日本人の宗教観>
西洋にとっての神とは「奇跡を行い給う外部の存在」。時に科学と衝突するが、だからこそ執拗に科学研究に取り組んだ。
一方、日本文明では、自分の心を清々しく保つことを重視する。奇跡には依存しない。戒律もない。神は外部にあるのではなく、「自らの心に宿る」。
仏教も日本に入ると「日本仏教」に。いや、「日本化仏教」というよりも、「日本的霊性の表現そのものだ」(鈴木大拙)。
仏教を取り入れたからインドやシナの周辺文明国なのではなく、仏教を独自の者にしたということは、独自の文明が太古からあったことを物語る。
日本の場合、「王朝が変わらない」ということは、いったい何を意味するのか。それは「継承」を本旨とする文明としての自己規定なのである。
外から異文明が入ってきても、それは前に合ったものの上に積み重なって、まだ「新しい全体」をそこから有機的に作り出していく。そういう文明の同化力、基礎力と言うものがあるから、「縦軸」が抽象化されずに、目に見えるものとして生き延びてゆく。
<日本文明の根幹は「皇室の連続性」にあり>
中国と異なり、日本の天皇は、姓を持たない唯一の君主。姓をもたないという事は、王朝が交代しないことを意味。ということは、ひたすら先祖を遡っていくとどうなるのか。神話に辿り着くほかはない。
♨ただ、臣籍降下して姓をもらった人はいるぞ…。
ちゃんとマスコミも報道すべき。合理性、開明性を重視しつつも、祭祀も重視しているのが皇室。どうも我々は片方を失ってしまった。これが昏迷の原因かも知れない。
<なぜ、「大国・中国」は日本征服を諦めたのか?>
中国史上最も版図を拡大したのは①唐の太宗、②元のフビライ、③明の永楽帝、④清の康熙帝。
太宗は白村江では勝ったが、本土へは攻めてこなかった。
フビライは3度目を試みるも、頓挫。
永楽帝時期は義満が900年ぶりに朝貢して喜ぶが、数年で終了。鄭和の大遠征を行っていながら日本には朝貢を強制できなかった。これには「日本を攻めてはいけない」という朱元璋の遺訓が影響したとも。
康熙帝vs家光、綱吉の睨みあいもあったが、やはり警戒心からか攻めてこられず。
♨江戸時代の安定は、清の安定とリンクしているという点にも着目。