こんにちは。
今回は、「建国当時、なぜソ連陸軍は短期間にパワーアップできたのか」を紹介します。
ソ連は建国前後に内戦、干渉戦争、大飢饉、大粛清など数々の困難がありました。
農業国を工業国に変化させる過程で生じた農民との戦い、飢饉は、「独ソ戦の方がラク(byスターリン)」と言わせるほどでした。
以下、「歴史群像シリーズ 大日本帝国の興亡④:満州事変と昭和陸海軍」の山崎雅弘先生の項などを参考にさせて頂きました。
【年表】日露戦争終結(1905年)~ノモンハン事件(1939年)
年 | ソ連 | 日本など |
---|---|---|
1905.9.5 | ポーツマス条約 日露戦争終結 | |
1907.4 | 日本「帝国国防方針」 ロシアを仮想敵国として第2次日露戦争に備える | |
1917.11.7 | 「十月革命」でポリシェビキが軍事クーデター、内戦勃発へ(※1) 【ロシア革命経緯はコチラも】 | シベリア干渉戦争 (シベリア出兵) |
1918.1.15 | 「労働者・農民赤軍」創設 | |
1918.7.17 | ニコライ2世処刑 | |
1919.2.14 | ソ連=ポーランド戦争(~1921.3) | |
1919.3.2 | コミンテルン創立 | |
1921.7.23 | 中国共産党設立 | |
1922.7.15 | 日本共産党設立 | |
1922.2.6 | ワシントン海軍軍縮条約 (ソ連は圏外) | |
1922.12.30 | ソ連成立 | |
1923 | 日本「帝国国防方針」 ソ連は仮想敵国を外れる(※2) | |
1924.1.20 | 中国における第1次国共合作 | |
1924.1.21 | レーニン死去 | |
1924.11.26 | モンゴル人民共和国建国 | |
1925.1.20 | 日ソ基本条約 | |
1925 | トハチェフスキー、赤軍本部長に就任(※3) トロツキー左遷 | |
1927 | スヴェーチン『戦略』刊行(※3) | |
1928.7 | 第1次5ヵ年計画(※5) | 世界恐慌(1929~) |
1929.7 | 奉ソ戦争(※4) トリアンダフィーロフ『現代陸軍の作戦の特徴』刊行(※3) | |
1932.3.11 | 世界で弾めて戦略規模の戦車/機械化部隊編成(※6) イッセルソン『作戦術の進化』刊行 大飢饉 | 満州国建国(1932.3.1) |
1933 | 第2次5ヵ年計画(※5) | 日本「対ソ戦闘法要綱」(※7) |
1934.9 | 国際連盟加入 | |
1935.9 | キエフで軍事演習(※6) | |
1936.9 | 白ロシア軍管区で大演習(※6) | |
1937 | トハチェフスキー、粛清 | |
1939.5 | ノモンハン事件(対日本) |
(※1)「十月革命」から「赤軍」誕生
【ロシア革命期のあらまし】(コチラも)
「二月革命」・・・皇帝が退位
↓
「十月革命」・・・ケレンスキーら社会革命党に代わって、レーニン率いるポリシェビキが政権奪取。
↓
「内戦勃発」・・・赤軍vs白軍
「ロシア干渉戦争(シベリア出兵)」・・・日本、アメリカ、イギリス、フランスら
↓
「皇帝処刑」
「十月革命」による軍事クーデターで、より急進的な社会主義を標榜するポリシェビキが政権を奪取しました。
ポリシェビキは貧しい農家や労働者階級の家に生まれた下級兵士たちを主体として「労農赤軍」を結成。
帝政ロシア時代の支配階級(貴族、資本家、地主、帝政を支持するロシア軍人など)を中心とする「反革命勢力」との内戦を迎えます。
(「反革命勢力」は「白軍」と呼ばれます。)
帝政ロシア軍の将軍クラスで赤軍に味方をするものは皆無で、労農階級出身者からなる赤軍は各地で劣勢に立たされました。
また、第1次世界大戦に対して「即時停戦」を主張するポリシェビキに対して、同盟国であったイギリス、フランスは日本やアメリカを誘う形で「ロシア干渉戦争」を起こします。
(彼らが支援したのが、デニーキン、コルチャーク、セミョーノフら【コチラも】)
戦闘開始時、赤軍は劣勢でしたが、「革命思想の宣伝効果」および、将校クラスで赤軍に身を投じるものが増えたことで、最終的に赤軍が勝利しました。
(傀儡政権を望んだんだけど・・・)
(※2)「赤軍」を侮る日本
日本における「ソ連赤軍」の評価はこのロシア干渉戦争(シベリア出兵)時に形勢されました。
(しかし、これが誤りのもとでもあります。)
ソ連赤軍は寄せ集めのゲリラ組織で、今後、帝政ロシア時代のような膨張をすることはないだろう、と考えたのです。
このため、1923年の「帝国国防方針」でソ連は仮想敵国から外れます。
(※3)「縦深理論」+「作戦術」を編み出す
しかし、20世紀初頭、どの国よりも戦争したのはソ連でした。
(日露戦争、第1次世界大戦、ロシア内戦およびシベリア干渉戦争、ソ連=ポーランド戦争・・・)
そうしているうちに兵士の練度が高まりました。
そして、さらに重要なことは、優れた軍事研究家および軍人の輩出です。
彼らは理論を戦わせ、日夜研究し、欧米諸国を凌ぐほどの「軍事理論の深化」を成し遂げたのです。
(結局、「独ソ戦」の勝利はこれによるところが大きいです。)
【代表的な軍事研究家、軍人】
・トハチェフスキー・・・「縦深戦闘理論」による殲滅作戦
・スヴェーチン・・・「作戦術」を提唱
・トリアンダフィーロフ・・・上記両者の融合
・イッセルソン・・・トランダフィーロフの内容をさらに発展
・ヴァシレフスキー・・・生徒として上記を学び、のちに第2次世界大戦でソ連を勝利に導く
【ミハイル・トハチェフスキー】(1893~1937)
通称:「赤いナポレオン」。
陸軍幼年学校を首席で卒業。赤軍に身を投じた後、内戦で無敵の強さを発揮し、レーニンからも賞賛を受ける。ソ連=ポーランド戦でスターリンと確執が生じたことが原因の1つであったか、のち、粛清の対象となり、1937年、国家反逆罪で銃殺。
(※4)奉ソ戦争で圧勝
ソ連の強さは既に1929年時点で表出されております。
1929年の「奉ソ戦争」(張学良vsソ連)を視察した日本陸軍将校による報告では、
「ソ連赤軍の戦闘能力は、帝政ロシア軍を上回り、軍規は厳正で組織内の上下関係も整然とし、欧米列強と遜色ない」
というものでした。
これにより日本陸軍はソ連を仮想敵国に位置づけることになります。
(もっとも、1933年の陸軍参謀本部の「対ソ戦闘法要綱」では再びソ連軍への評価が「侮り」に変わってしまうのですが・・・:後述)
ソ連赤軍将校たちに軍事科学を教えていたのは、ロシア人だけではありませんでした。
のちの「独ソ戦」で敵となるドイツの優秀な将校たちが秘密裏にソ連に招かれ、講義していたのです。
第1次世界大戦以降、彼らは軍事研究ができなくなっていたため、同じく国際社会から「つまはじき」されていたソ連と「秘密の軍事提携事業」を結び、ソ連側がドイツに戦車や軍用機の「訓練施設」を提供する代わりとして、ドイツ側は「軍事術」を教える、という関係を続けていました。(1920年代~1930年代初頭)
ソ連はこれにより近代兵器の大量生産に必要なノウハウや、その資金を低金利で供与してくれるドイツ企業・銀行とのつながりも得ることに成功しました。
(※5)世界恐慌を尻目に「第1次5ヵ年計画」で重工業化に成功
そして何よりこの軍事力を支えたのは、「第1次5ヵ年計画」および「第2次5カ年計画」による重工業化の成功です。
さらに「ワシントン体制」の圏外であったことも軍拡を可能にした一因でしょう。
それまで農業国でしたが、急激に工業国(および集団農業)へ変化させるにあたって、農民の反対、飢饉もありましたが、
最終的に、
【重工業化の成果】(1928年→1935年)
戦車:1000両→10000両
輸送トラック:1000台→35000両
牽引車:300台→5500台
稼働軍用機:1400機→6700機
※常備軍は61.7万→93万
※人員増加率に比して機械化は歴然。
と、めざましい発展を遂げました。
また、ウラル山脈のような空爆が届かない奥地で膨大な数の戦車や大砲を量産する生産ラインを確立したことは、のちの独ソ戦でも効果を発揮しました。
(これも「戦略」の1つでしょう。)
ソ連軍事科学研究の結晶。
【戦術】
「個々の戦闘に勝利する技術」
【戦略】
「軍事のみならず政治や経済などの非軍事的要因も視野に入れた上で、戦争の勝利を獲得するために行なう思考術」
(※第1次世界大戦でドイツが負けたのは、局地で勝利しても戦略と結びつかなかった)
【作戦術】
「戦術」と「戦略」を効果的に結ぶ架け橋
ソ連軍は「作戦術」を徹底的に研究し、これをトハチェフスキーの「縦深戦闘」と組み合わせることで、より威力を発揮した。
(※6)世界初の機械化軍団「ヴォルインスク」誕生
重工業化に成功したソ連は1932年3月11日、世界初の機械化軍団:「ヴォルインスク」を編成しました。
(ドイツはこれに3年遅れます。)
何とかせねば・・・。
また、1935年にキエフで行なわれた大演習は65000の兵員、1000両の戦車、600機の航空機に加え、空挺部隊(パラシュート部隊)で各国の観戦武官を驚かせ、
1936年の白ロシア軍管区で実施された大演習ではそれをさらに拡大させた演習を行ないました。
(この演習にはのちにノモンハン事件、独ソ戦で活躍するゲオルギー・ジューコフ(40歳)も第4騎兵師団長として参加しております。)
(※ちなみに関東軍特別演習:関特演は1941年、独ソ戦開始時。兵力74万が北満に集められました。もしソ連が東西から挟撃されたらどうなっていたのでしょうね。)
(※7)ソ連への「恐れ」と「侮り」
「奉ソ戦争」を見てソ連軍の強さに驚愕した日本でしたが、1933年に陸軍参謀本部が作成した「対ソ戦闘法要綱」では再び「侮り」を入れてしまいます。
【ソ連人の民族性に基づく特質】(@対ソ戦闘法要綱)
「ソ連人は鈍重粗雑、消極的で、独断および企図心に欠ける」
「ソ連軍の重大な欠陥は、協同動作の不得手にあり、友軍が互いに競って他の難に赴く気概が乏しく、兵団の各個が不統一な戦闘に終始することが多い」
などなど。
こうした認識の背景としては、日本は物量で圧倒的な不利なため、「練度」であったり、「精神力」といった「質」で勝負しなくては戦うことすらままならなかっため、と考えられます。
この時期、皇道派と統制派の争いが表面化した時期でもあります。
両者の争いの根本は「対外政策」にあり、「対ソ」を重視する皇道派と、「対ソの前に、対支戦争」を掲げる統制派で意見が割れていました。【コチラも】
まとめ
「重工業化の成功」
+
「軍事科学研究の成果」
(もちろん、帝政ロシア時代から力はあったものの、ソ連は帝政ロシア時代を上回るほど)
国際社会に訴えるべきだった日本
「満州建国の真実」より。
このようなソ連の膨張により、西側ではポーランド、フィンランド、バルト三国、ルーマニア、東側では日本が危機にさらされます。
ソ連の膨張に気付いた日本(特に外務省)は国際連盟を脱退するのではなく、満州国建国はソ連膨張を食い止めるためのものだったことを国際社会にもっと訴えるべきだったのではないでしょうか。
宇垣一成(国際連盟脱退に際し)
「軍部の短見者流の横車に引き摺られ、青年将校でも述べそうな事を、お先棒となって高唱し、なんら策も術もなく、押しの一点張り。無策外交の極致」
※小村寿太郎がハリマンの提案を断ってアメリカの誤解を招き、松岡洋右が多くの反対を押し切って日独伊三国同盟を結び、対米強硬を強め、敗戦後はアメリカに従属することで責任を逃れている「外務省」を許せない、という鈴木荘一先生の論調でありました。
♨満州国建国と機械化軍団の誕生時期がほぼ同じ。関東軍は対ソ連を意識して満州国建国を急いだのでしょう。
※のち(そして現在に至るまで)、日本が行なっていた東アジアの安定の役割をアメリカが担うことになります。「陸軍悪玉史観」が言われ続けておりますが、ソ連の方がもっと悪いのでは、というわけです。
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