こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑮:1865年下半期」です。
着任したパークスは、動乱の原因を孝明天皇にあると考え、大阪湾に来航して圧力をかけます。
これに対して老中阿部正外と松前崇広はやむなく開港決定しますが、
一橋慶喜が敢然と異を唱えます。
1865年(慶応元年)下半期
9/16 | 兵庫開港要求事件(※1) ※パークス主導で英仏蘭艦隊は、兵庫沖に来航して兵庫の早期開港と条約勅許を要求 ※混乱の原因は孝明天皇にあると考え、京都に近い場所に来航して威嚇 ※アメリカは使節のみ参加。 |
9/21 | 長州征討勅許となる。(※2) ※列国の威圧もあり。 ※諸藩は消極的。 ※大久保利通は「非義の勅命は勅命にあらず」と薩摩藩へ文書を送る。 |
9/25 | 老中・阿部正外、松前崇広、兵庫開港を決定 ※パークスらは朝廷との直接交渉を辞さない構えだった。 ※しかし、翌日、一橋慶喜が無勅許での開港を激しく非難。 |
10/1 | 徳川家茂、将軍辞表提出(のち撤回) ※「兵庫開港」を決定した幕府老中阿部正外、松前崇広を朝廷が処罰したため。 ※背後にいる慶喜への不信? |
10/5 | 「安政5ヶ国条約」勅許となる。ただし、兵庫開港は認めず。 ※慶喜の説得による。 ※孝明天皇もようやく悟る。(孝明天皇の頑迷さが幕末の問題の一因でもあった。) ※兵庫開港を認めなかったことが、翌年の改税約書につながる。 |
10/13 | 幕府、横須賀製鉄所建設開始(※3) ※小栗忠順の尽力による。 |
(※1)兵庫開港要求事件
イギリスなど4カ国はさらに、尊攘派勢力の退潮という好機を利用して、依然として通商条約を勅許しない朝廷に対して、1865年に兵庫沖に艦隊を送って軍事的な威圧をかけ、、、
「詳説日本史研究」p325
尊攘派の退潮という好機を利用?
そんな弱くないぞ、私は。
兵庫開港は認めさせられなかったものの、通商条約の勅許を勝ち取り、朝廷の攘夷方針をやめさせることに成功した。
「詳説日本史研究」p325
イギリスは日本との全面戦争は望んでいない。
貿易が全てだ。
もし日本の体制を変えるとすれば、それは、徹頭徹尾、日本的性格と言う特徴を帯びていなければならない。
ともあれ、勅許が得られたことで暗殺はピタリとやんだ…
朝廷は江戸幕府に大政委任していたのではなかったのですか!
勝手に幕府老中の決定を覆すくらいなら、辞めてやる!
勅許が得られたのは、私の手柄です…
でも兵庫開港は同意が得られず、また難題を押し付けられるのですが…
私の代で開国とか、ホント勘弁。異人嫌い。
って、そうも言ってられない状況か…。