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☞【幕末年表⑰:1866年・下半期】『神君・家康公の再来か?』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑰:1866年下半期」です。

第2次長州征討の最中、将軍家茂が病死してしまいます。

さて、慶喜の行動はいかに?

1867年(慶応2年)下半期

7/20将軍家茂、大坂城で病死

虫歯だらけだった
※満20歳。
7/29 慶喜、徳川宗家を相続
7/30 小笠原長行、小倉城より逃亡
8/1 小倉城落城

※老中小笠原長行は逃亡。肥後藩兵らも離脱。これが戦局を決定づける。
8/8 慶喜、長州藩征討の勅書を受ける
8/16 慶喜、征長軍解兵を奏上

長州征伐の気でいたが、小倉城落城の報を聞いて、豹変
慶喜と共に前線に出ることを決意した会津藩、勅命まで受け取っておきながら意を翻された孝明天皇は激怒
8/20小栗忠順、フランスから600万ドルの借款成功

※幕府軍の近代化が進む
8/21 幕府と長州藩に休戦を命じる書が朝廷より出される
8/30廷臣二十二卿列参事件

※大原重徳らは、以前に処分された公家(岩倉具視?)の復帰を願い出たところ、孝明天皇に却下される。
※岩倉具視は、1862年、三条実美らの策謀により失脚していた。
※親薩摩派が処罰されたため、薩摩藩は孤立気味に。
9/2 第2次長州征討終結(※1)

※幕府代表勝海舟と長州藩代表広沢真臣の間で休戦協定
※海舟にとっては損な役回り。
この時期、世直し一揆が頻発。
12/5 慶喜、第15代将軍となる(※2)

※第2次長州征伐で敗北したにも関わらず、諸藩は慶喜を支持。しかし、ここから大政奉還まで1年もない。
12/25 孝明天皇崩御(※3)

※岩倉具視、伊藤博文らによる暗殺説もあるが、現在では否定的。
※これがすぐに倒幕には結びついたわけではない。この時点でもまだ小松帯刀(薩摩藩)と原市之進(幕府)は極めて良好な関係を保っていた
※薩摩藩は財政問題で、幕長戦争終結後に在京の兵1000を国元へ戻した。これにより長州や坂本龍馬たちは大慌て。『薩長盟約』とはその程度のものであった。

(※1)(紆余曲折を経て)第2次長州征討終結

(幕府は)長州藩領へ攻め込むことができず、逆に小倉城が長州軍により包囲され落城するなど戦況は不利に展開し、幕府はまもなく大阪城中で出陣中の将軍家茂が休止したことを理由に戦闘を中止した。

「詳説日本史研究」p326
年表をしっかり見ると、この記述、だいぶ端折っていることがわかりますね。
家茂
まず私が死んだ。これが7月20日。
小笠原長行
次に私が小倉城を諦めた。これが7月30日。
孝明天皇
私は引き続き、慶喜に長州征討を言い渡した。これが8月8日。
慶喜
私は戦おうとしたけど、やっぱ辞めた。これが8月16日。
孝明天皇
えーーーっ!!
慶喜
勝海舟、あとの交渉頼むわ。

あ、粗相の無いようになー。

勝海舟
えーーーっ!!
小栗忠順
フランスの力を借りて、軍備を立て直すんじゃ!
岩倉具視
えっと、私はそろそろ復帰しても良いでしょうか…
孝明天皇
ならんっ!!
えーーーっ

(1866年には)百姓一揆の件数が100件を超し、武蔵一円の一揆や陸奥信夫(しのぶ)・伊達両郡の一揆などでは、世直しが叫ばれ社会の変革が期待された(世直し一揆)。

また、都市でも長州征討のさなかに大坂・堺・兵庫や江戸で打ちこわしがおこり、民衆の幕府に対する不信がはっきりと示された。

「詳説日本史研究」p326
第2次長州征討の長期化を睨んで、各藩が米の備蓄を増やしたんですね。

それで米の値段が急騰したのです。

そうなると悪いのは長州じゃなくて、現政権、つまり幕府、ってなりますね。

どうでもいいけど、米よこせー!