こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑲:1867年第2四半期」です。
5月に始まった「四侯会議」は、慶喜がリード。
最終的に勅許を得ての「兵庫開港」が決定しました。
一方、会議をリードできなかった薩摩藩は、「武力倒幕」に舵を切ります。
しかし、ここで坂本龍馬から「大政奉還」のアイデアが出されます。
1867年(慶応3年)第2四半期
4/1 | パリ万国博覧会 ※江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が出展 |
4/12 | 島津久光、上京 ※慶喜の意向。雄藩連合により再び幕政を立て直そうとしていた。 ※3/25出発。4/12到着。 ※伊達宗城、松平春嶽、山内容堂らも続く。 ※ただし、長州藩の処遇をめぐって分裂。 |
4/14 | 高杉晋作、死去 ※おもしろき こともなき世を おもしろく |
4/15 | フランス新外相、600万ドル借款を拒否 ※薩摩藩の入れ知恵もあり。 |
4/23 | いろは丸沈没事件 ※海援隊の「いろは丸」が6倍近い大きさの紀州藩船と衝突。 ※裁判になり、海援隊は紀州藩から多額の賠償金を得る。 |
5/4 | 四侯会議開始(~5/23)(※1) ※徳川慶喜、島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、二条斉敬 |
5/21 | 薩土密約(※2) ※両藩の過激派が結んだ武力革命の軍事同盟。 ※土佐藩からは中岡慎太郎、谷干城、板垣退助、薩摩藩からは西郷隆盛、小松帯刀、吉井幸輔ら。 ※坂本龍馬は含まれていない。 |
5/22 | 山内容堂、薩土密約を事後承認。 ※ただし、徳川家に恩のある容堂は、気持ちが固まっていなかった。 |
5/24 | 兵庫開港および長州藩処分勅許 ※久光が示した長州藩の処分案は慶喜が握り潰す。 ※西郷ら急進派は息を吹き返した。 |
6/10 | 坂本龍馬、この頃、大政奉還を後藤象二郎に進言 |
6/16 | 久光、長州藩士品川弥二郎たちを引見し、西郷派遣を伝える ※薩長盟約の確認のため。しかし、薩土密約が結ばれたことで、西郷派遣は中止となった。 |
6/22 | 薩土盟約締結(※3) ※薩摩藩から西郷、大久保、小松、土佐藩から後藤象二郎。 ※坂本龍馬、中岡慎太郎も立会う中、大政奉還・議会制度確立を目指し盟約締結。 ※孤立気味になっていた薩摩藩にとって土佐藩との盟約は渡りに船。 しかし、後藤が長崎での「イギリス人水夫殺害事件」(7/6)に応対している間に、薩摩は武力倒幕を決定。←外国人の圧力があった? ※西郷隆盛は「薩土密約」と「薩土盟約」という全く異なる内容の条約を、異なる土佐藩士と結んでいた。 |
(※1)四侯(しこう)会議
しかし、幕府は長州征討の処理をめぐって薩摩藩と衝突し、1867年、薩長両藩は武力倒幕を決意した。
「詳説日本史研究」p326
そして、出席者は四候+徳川慶喜、二条斉敬(摂政:親幕派)です。
そして、最初に久光と言い争ったのは二条斉敬です。
順を追って見ていきますと、
第1回(5/4)・・・久光、春嶽、宗城、容堂の4人で行われる。(@越前藩邸)
第2回(5/6)・・・四候+二条斉敬。慶喜はいない。久光が親薩摩派公家の復活を要求したところ、二条斉敬が反対して激論。(@二条斉敬邸)
第3回(5/10)・・・容堂が欠席。(@二条斉敬邸)
第4回(5/13)・・・次は慶喜を入れることが決定。(@土佐藩邸)
第5回(5/14)・・・ようやくフルメンバー。長州藩の処分と、兵庫開港問題のどちらから先に話し合うかで久光と慶喜が対立。最後は記念撮影。(@二条城)
第6回(5/17)・・・話し合いは平行線。(@土佐藩邸)
第7回(5/19)・・・容堂は欠席。(@二条城)
第8回(5/21)・・・容堂は欠席。慶喜は兵庫開港勅許に全力。同時に、長州藩の朝敵解除も天皇に進言することを求めた。すべては慶喜主導で展開。(@二条城)
→主導権を握ることができなかった久光は、諦める形で5/23からの朝議に出席せず。
私が何とかします。
土佐藩・山内容堂は幕府に味方する気みたいで、話になりません…
せっかくお膳立てしたけど、
久光どのではやっぱりダメそう。
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