こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表㉘:1868年5月」です。
江戸城無血開城後も、「宇都宮城の戦い」、「会津戦争」と続き、
5月には新潟で「北越戦争」(長岡城の戦い)が勃発しました。
そして、江戸では「上野戦争」(彰義隊の戦い)が起こります。
いずれの戦いも新政府軍が勝利します。
1868年(慶応4年)5月
5/1 | 大総督府、勝たちへの江戸市中取締委任を解く (→大村益次郎が兼任) |
5/2 | 小千谷談判決裂。北越戦争、開始(※1) 長岡藩士・河井継之助 「あなた方は真の官軍ならば恭順しても良いです。しかし、討幕と会津討伐の正当な理由は何でしょうか?君が臣を討つのは非道ではないでしょうか?本当は私的な制裁や権力奪取ではないでしょうか?」 ↓ 土佐藩・岩村精一郎が激昂して長岡藩への攻撃を宣言し、30分で会談は決裂。 |
5/3 | 奥羽列藩同盟(25藩)が成立 |
5/4 | 長岡藩が奥羽列藩同盟に加入 |
5/6 | 奥羽越列藩同盟、成立(※2) ※輪王寺宮(寛永寺元住職、皇族、当時21歳)を盟主にたてる |
5/15 | 上野戦争。(彰義隊の戦い)(※3) ※官軍、上野総攻撃 ※大村益次郎により半日で壊滅。 ※この時点で西郷は次なる戦いを楽しみにしている風ではあったが、武力討伐派は少数であった。 ※この戦い以降、旧幕府の解体が一挙に進む。高札の撤去(18日)、本所御蔵の封印(19日)、三奉行の廃止(20日)、町奉行所の引き渡し(21日)、評定所の引き渡し(23日)。 |
5/19 | 長岡城陥落(※1) ※しかし、7/25に奪い返す |
5/24 | 徳川亀之助(家達)、静岡藩主に。 ※徳川宗家存続の許可決定。 ※家達は14代将軍家茂の親戚。 ※70万石に激減。 |
(※1)北越戦争(長岡城の戦い)
長岡藩、家老河井継之助を中心に新政府軍に抵抗し、一時は新政府軍を退けたが7月に落城。
「日本史のライブラリー」p209
タイトルは「峠」。乞うご期待。
既定路線であった会津討伐に向けて、新潟港を押さえることは新政府軍にとって重要事項の1つでした。
新政府軍にとっては、長岡藩のような小藩は恭順するものと思っていたのかも知れませんが、
そこに河井継之助が現れます。
河井継之助は会津藩との和睦を周旋すると訴えますが、交渉にあたった土佐藩士・岩村精一郎はこれを時間稼ぎと考えて却下。
会津討伐の大義の説明を求める河井に対して岩村が激昂して、いわゆる「小千谷談判」と呼ばれる会談は30分で決裂したと言われます。
そして、北越戦争となったわけですが、河井継之助はただの家老ではありませんでした。
巧みな用兵で兵力に勝る新政府軍と互角に渡り合います。
しかし、領内での一揆、新発田藩の裏切り、そして河井継之助自身の負傷が重なり、最終的に新政府軍が勝利します。
(※2)奥羽越列藩同盟。幻の東北王朝?
新政府が仙台藩に会津討伐を命じると、仙台・米沢藩など14藩は会津藩の赦免を嘆願。拒否されるとほかの奥羽・北越17藩を加え31藩の同盟を組織。
「日本史のライブラリー」p209
と申しますのも、皇族をトップに据えておりまして、「東北王朝」とも言える要素があったからです。
アメリカ公使は「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と本国に伝えております。
プロイセンとの連携も視野に入れておりました。
(※3)上野戦争(彰義隊の戦い)
一橋家の家臣を中心に旧幕臣ら、彰義隊を結成。江戸城開城後、上野寛永寺にこもり挙兵。大村益次郎率いる新政府軍に敗北し、榎本武揚ら、箱館に逃亡。
「日本史のライブラリー」p209
江戸の都市機能を守るには、雨が降っている間に終わりにする必要がありました。
そこがやられた時の精神的ショックは計り知れません。
敗残兵を率いて、奥羽越列藩同盟の支援に向かいます。
「徳川氏の柔 極まるを知る…」