こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「欽明天皇」時代です。
第26代・継体天皇には後に天皇となる3人の皇子がいました。
1人は第27代・安閑天皇(ただし即位時66歳で、その4年後死亡)
もう1人が第28代・宣化天皇(ただし即位時69歳で、その3年後死亡)
そしてもう1人が第29代・欽明天皇です。
安閑天皇・宣化天皇と、欽明天皇は並立していた時期があるという説など、諸説ありますが、
欽明天皇くらいから、ぐっと歴史の信憑性が増しているというイメージがあります。
欽明天皇は「古墳時代」の人でありますが、推古天皇の父親でもあるため、
だいぶ「飛鳥時代寄り」の人なんですね。
(推古天皇から飛鳥時代)
「継体天皇ー欽明天皇ー推古天皇」というラインを覚えておくと良いでしょう。
(ちなみに欽明天皇は聖徳太子の祖父でもあります。)
この時代、東アジア情勢の変動から「仏教伝来」が起こり、日本史に新たな軸が加わりました。
第29代:欽明天皇期(在位539年~571年)
【欽明天皇】
継体天皇皇子。
在位中、新羅の台頭により任那日本府がつぶれた。仏教伝来もこの時代。
538 or 552 | 仏教伝来。 ★日本書紀に拠れば552年であるが、現在では538年が有力。 (538年だと在位前) |
540 | 大伴金村、任那政策を否定されて失脚 |
新羅が任那を滅ぼしました。
そのため、危機感を覚えた百済の聖明王がヤマトに仏像と経典を送りました。
仏教伝来はそうした背景があります。
仏教の認可をめぐって、蘇我稲目(仏教派)vs物部尾輿(神道派)の争い(崇仏論争)が、勃発したと言われますが、
「百済との同盟の認可をめぐって」と置き換えることも可能でしょう。
なお、最初は物部氏が優勢でしたが、稲目の息子・馬子、尾輿の息子・守屋の代で逆転します。
稲目は娘2人を欽明天皇に嫁がせましたが、その子が用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)です。(用明天皇は早世、崇峻天皇は馬子と反目して殺害)
540年、大伴金村失脚
大伴金村は継体天皇を越前から迎え入れた豪族でした。
(継体天皇は欽明天皇の父ですね。)
磐井の乱(527年)鎮圧指導など(この時の将軍は物部麁鹿火:もののべのあらかい)も行いました。
しかし、540年、任那を割譲した責任を糾弾される形で失脚したと言われております。