~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、呉座勇一先生の『戦争の日本中世史』(2014年、新潮選書)の「読書メモ」です。

心奪われるほど熟読できる本に巡り会えることは頻度的には1割もないでしょうか…

本書はその1割に当たります…

あまりにも素晴らしかったので、精密に読書メモをとってみました。

前編はコチラ

第6章:武士たちの戦後

遠征は諸刃の剣

★1349年、高師直のクーデターで足利直義が失脚すると、それまで鎌倉を治めていた義詮が京都で政務を行い、義詮の弟の基氏が鎌倉を治めることに。この地位を鎌倉公方と呼ぶ。基氏はまだ10歳であったため高師冬、上杉憲顕が補佐。ただ、憲顕は直義派であり最初から波乱含み。はたして子の能憲が挙兵すると、憲顕と合体し、師冬は基氏を連れて鎌倉脱出。しかし、基氏の近臣で直義派の者が師冬派を殺害、基氏を連れて憲顕の下に行くという事件が。玉を奪われた師冬は各地を転戦するも自害。

★観応2年に再び尊氏と直義の争いが勃発、直義は近江で負けた後、上杉憲顕の抑えている北陸道を通って鎌倉へ。ここで尊氏は南朝に降伏のかたちをとって鎌倉攻撃へ。基氏は安房に避難し局外中立。直義は戦に負けた後、突然亡くなる。以後、尊氏は鎌倉に逗留、東国を統治し、義詮が西国を統治すると言う変則的な図式となる。

★東国では新田義貞息子の義興、義宗が上野で挙兵、後醍醐息子の宗良親王が信濃で挙兵、上杉憲顕(かつては尊氏軍総大将)も挙兵。しかし、武蔵野合戦で尊氏に敗北。

★畿内では南朝方が蜂起、正平一統を破り京都へ進軍。義詮は大敗し近江に逃げる尊氏の遠征により主力が留守になってしまったのが原因とはいえ、義詮は失敗をした

足利義詮の挫折

★後光厳天皇は義詮を信用しておらず、文和元年(1352年)の足利直冬・南朝連合軍の挙兵に際し、尊氏に上洛を要請。尊氏は武田家らを率いて上京。

★1354年、義詮は佐々木道誉、赤松則祐らを率い直冬討伐へ。直冬、山名、桃井、斯波らは挙兵し、続々入京。尊氏はいったん近江に行くが義詮は引き返し、山崎で山名家と戦闘。なんとか勝利するも京都戦線では膠着。ここで関東より畠山家が加わり七条西洞院で合戦。この「文和東寺合戦」で多くの東国武士も死去するが尊氏勝利。ただ、これもまた義詮の失策でもある。以後、義詮は直冬・時氏に積極攻勢策は行わず、赤松家や細川家を山名氏への抑えとして配置する。

畠山国清の勘違い

1358年、足利尊氏54歳で死去。尊氏に従った武将も関東に帰る。後継者は義詮であるが、補佐役である執事は誰にするかが問題となった。高師直の死後は仁木頼章が務めていたが、尊氏死後は出家。そこで文和東寺合戦などで功績のあった細川清氏がなった。

★義詮ー清氏の政策の目玉が畿南の南朝追討。畠山国清は関東軍を率いて参じるも、やる気があったのは細川清氏と畠山国清のみ(2人は盟友)。名将の誉れが高い仁木頼章弟の仁木義長は西宮で傍観(義長と細川はライバル)。清氏、国清、土岐頼康らは金策も尽き南朝を攻めきれず撤退。

★南朝方の楠木正成3男の正儀、および和田正武が蜂起すると、細川、畠山、土岐が義詮の命を待たずに出陣、天王寺に向かうがこれは偽装で、実は仁木義長を討つため。義長は将軍御所の警備と称して義詮の身柄を確保するが佐々木道誉の手引きで義詮は御所を脱出。義長は不利を悟り、京都を脱出、やがて南朝方に転ずる。

♨ややこしい…

★畠山国清は東国武士を連れて尊氏の再来をイメージしたのであろうが、南朝は滅ぼせず、勢力争いにうつつを抜かしている間に義詮も危機に陥れるなどしたために、信頼を失う。そのうえ、無断帰国した東国武士たちの所領を没収。

★1361年、京都で清氏が失脚した後、東国武士の要求により、足利基氏(22歳)は畠山国清を罷免。国清は国元の伊豆へ帰るが、東国武士に討伐例が出される。半年後、降伏。

遠征はもうこりごり

★同じ頃、京都も混乱していた。1361年9月、細川清氏は義詮と対立し国元の若狭へ。若狭へ幕府軍が攻め込むと今度は南朝に降参。12月に細川清氏、楠木正儀は京都に進撃。義詮は一度、近江に逃れた。

★山名シフトが効果があったのかどうかはともかく、最強軍団の山名時氏は、もはや幕府転覆に関心を示さなくなっており、軍の疲弊を考え「遠征は無益、地方に自らの王国を作ろう」という方針に変わった。

★京都は盆地で守るにくく、攻めやすい。南朝が4度も奪い返すことができたのはこのせいであるが、湖西道を抑えられると干上がる。事実、20日ほどでまた奪還された。

★山名時氏だけではなく、征西将軍府の懐良親王も1361年に大宰府を制圧して九州に覇を唱えても南朝の上洛要請に従わず、征西将軍府を独立的な地方政権にしようと考えた。北畠顕家の頃とは大違いである。室町幕府の功臣たちも30年近く戦い続け、攻めることより守る姿勢に変わった

★南朝はジリ貧だが、その南朝を討つだけの力は義詮には残っていなかった。

大内氏・山名氏の「降参」

★1363年春、大内弘世が幕府に帰参。それにあたり、周防、長門の守護職を要求。義詮は「西国の安定」を名目に了承。

★これで長年、幕府方に尽くしてきた厚東義武は守護職剥脱され、九州に渡り征西将軍府に仕えた。大内は九州侵攻を開始し、大内vs征西将軍府・菊池・厚東になるも大内氏撤退。

★山名氏は幕府軍に対して優勢であったが、直冬は劣勢。大内氏の帰参を見て、ついに直冬を見限り幕府に帰参。伯耆・因幡に加え赤松家と争っていた美作、仁木家と争っていた丹波、丹後の守護職となる。

(※山名氏は群馬出身だった!実際に、高崎と藤岡の間くらいに山名という地名がある。)

★また、義詮は鎌倉公方の足利基氏と相談し、上杉家の帰参も画策。上杉憲顕は直義党の有力武将で、新田一族と組んで越後守護の宇都宮家と争っていたが、義詮は宇都宮に見切りをつけ、上杉憲顕を越後守護、関東管領に。大内、山名、上杉の帰順で内乱は急速に収束。あとは九州などの一部に。

★その後、諸将は上洛命令により京都常駐、幕府の政治に深くかかわるようになり、「大名(たいめい)」と呼ばれるように。守護は固定化が進み、「守護家」が確立され、安定。曲がりなりにも戦乱終結への道を切り開いた足利義詮の政治手腕には一定の評価を与えるべきであろうが、巨大勢力をそのまま残すことは将来の禍根のもとでもあったことは否定できない

★山名、大内の牙を抜くのは次の義満の時である。

応安大法は大規模戦闘終結宣言

1367年、足利基氏死去。佐々木道誉が関東に。しかし、義詮も同年没する。義満、わずか10歳であったため細川頼之が管領となり政務を取り仕切る

★1368年、上杉憲顕が相続祝いで上洛すると、関東の反上杉勢力が蜂起(武蔵平一揆の乱)。しかし、返り討ちにあう。以後、関東統治は鎌倉公方に任せ、関東管領上杉家を通じて公方の暴走を抑えると言う間接支配の方向に。

★義満政権最初の仕事は「応安大法」。応安の半済令とも言うが、半済令は一部でしかないのでやや不適切。義詮の寺社本所保護路線を引き継ぐものであった。武士が大半を占拠しているので、半分は本所に返してあげろ、というもの。

★ただ、実際に実行するのは守護であるため、どれほどの効果があったかは不明。しかし、代替わりでの徳政的な意味合いもある。また、寺社が徳政のターゲットになっている点がポイント。人々の信仰心は薄れてきたからこそ、寺社を大事にしよう、的な。

★幕府の意気込みは強かった。半済令はもともとは武士のために戦乱時に一時的に出された軍事措置であったが、武士にとっての半済が大きく制限される形となった今回の法令が出されたという点で、戦時体制の終了を意味したかった。

戦闘態勢の解除

★戦乱の時期には京都での訴訟は困難。戦争が終わったからこそ、遠隔地所領を裁判で取り戻そうという動きも出てきた。

足利義満の一族離間策

★1379年、反頼之派の蜂起により失脚し頼之は讃岐へ。「康暦の政変」と呼ばれ、一般には細川vs斯波で語られるが、実際は細川vs「斯波+土岐」である。この頃、佐々木、山名は既に死亡。この政変で土岐頼康は美濃、尾張、伊勢の3か国の守護職を兼任し、東海道の入り口を掌握した。これは義満によって脅威

★細川失脚は義満にとっては痛手であったが、自立のきっかけにもなった。1387年、土岐頼康が70歳で生涯を閉じると、養子の康行が継承。しかし、義満は在京の康行の弟、満貞をかわいがり尾張を満貞に与えた。これにより兄弟が反目。1390年、頃合いを見計り義満が軍事介入。その後、最終的に満貞は翌年の「明徳の乱」での失態を口実に尾張守護を罷免となった。義満のワナである(!)。

★山名氏は1371年に時氏が亡くなってからも、1378年の南朝方の乱の征伐の功績で紀伊、和泉の守護職となり、康暦の政変でも守護職を増やし11か国の守護となり、「六分の一衆」と呼ばれるようになっていた。しかし、義満は相続争いに介入し、反主流派を焚き付けて惣領と戦わせ、反主流派も後で切り捨てることで戦力を削った。これを1391年の「明徳の乱」という。これにより山名氏の所領は3か国に。

内乱の幕引き

★山名氏の次の巨大勢力は大内氏。康暦の政変で豊前、明徳の乱で紀伊、和泉を獲得し、周防、長門、石見をあわせて6か国に。山口と堺を結ぶことで海外貿易も推進された。ここまで認めたのは南朝攻略に必要であったからであろう。

★1392年、大内義弘の仲介で南北朝の合一が成立。南朝の後亀山天皇が帰京し、北朝の後小松天皇に三種の神器を引き渡す。

★1394年、義満は将軍職を義持に譲る。

★1395年、九州探題今川了俊が更迭。これには国際貿易港・博多を掌握したいと考えていた大内義弘が一枚かんでいた。義満は依然として義弘を買っていたが、次第に義弘は大功を鼻にかけるようになり関係がぎくしゃく。

★1399年、応永の乱(堺合戦)。義弘は自分が殺されるのではないかという噂を信じ、義満に謀反。鎌倉公方足利満兼と共謀するも満兼は関東管領上杉憲定による強硬な反対により出兵できず。最終的に大内義弘討死も、防長2か国は安堵、足利満兼も安堵。そこまで遠国には幕府も派兵できなかったからでもある。

★遠江半国守護今川了俊は乱への関与を疑われ引退。

義満は紀伊、和泉を大内氏から取り上げ、畿内を忠実な大名で固めた。もう自ら戦うことはなくなり、ついに内乱の時代に幕を引いた

弓矢よさらば

★この頃、一揆の目的は「共に戦う」から「共に訴える」に変化。

★大内義弘がいかに義満の非を訴えたところで、戦争をすることを武士たちはもう望んでいなかった。武士たちも守りに入ったのである。

★1397年、北山弟の造営に当たり義満が諸大名に人夫や材木の提供を依頼した際、大内義弘が「自分は弓矢によってお仕えしているのだから、土木作業に関わるつもりはない」と答えたのは有名。義弘は時代を読み違えていた。

summary (略年表)

1349年、高師直のクーデターで足利直義が失脚。鎌倉公方設置。初代は義詮弟の足利基氏。

1352年、文和東寺合戦で足利尊氏が東国武士を連れて南朝方を打ち破る。

1358年、足利尊氏、54歳で死去。

1361年、山名時氏、征西将軍府の懐良親王は京都での動乱および上洛要請に付き合わず。意識変化。

1363年、大内氏、山名氏帰参。しかし、これは降伏と言うよりは守護の地位を得るための対等な交渉。

1367年、足利基氏死去。佐々木道誉が関東に。義詮⇒義満に。細川頼之が管領。「応安大法」。

1368年、武蔵平の合戦。関東統治は鎌倉公方に、関東管領上杉家が公方の暴走を抑えると言う構図に。

1379年、康暦の政変で細川頼之失脚。斯波氏の裏には土岐氏。美濃、尾張、伊勢の3か国の守護職に。

1390年、土岐氏の乱。土岐家に内紛を起こしたところに義満が軍事介入。東海道の入り口が忠臣に。

1391年、明徳の乱。山名氏の遺産相続に義満が軍事介入。山名氏は11か国⇒3か国に。

1392年、南北朝合一。

1394年、義満、将軍職を持氏に譲る。

1399年、応永の乱。大内義弘討死。紀伊、和泉を取り上げる。

最終的に義満は紀伊、和泉を大内氏から取り上げ、畿内は忠実な大名で固め、自ら戦うことはなくなり、ついに内乱の時代に幕を引いた