終章:戦後レジームの終わり
妥協の産物としての室町の平和
★足利義満を専制君主的な扱いにする論者も少なくないが、派手なイベントとは裏腹に謀反の動きを見せた鎌倉公方足利満兼、大内氏の処分など、現実では多くの妥協を強いられた。義満の決定に公然と異を唱えた大内盛見は結局、守護に。九州攻略もこれにて頓挫。
★関東、九州の守護は守護在京制をとらず、そもそも奥羽は守護がおらず、これらの地方には半独立的な性格を容認することで平和を達成した。
★次の義持の時代にも遠国の問題には室町殿が独断で政策を進めるには諸大名の同意が必要と言う不文律があった。強硬策に傾きがちな義持を、細川、斯波、畠山、山名、一色、赤松が表向きは同調するかのように見せて穏便な方向へ軌道修正するというのが常で、諸大名は負担に消極的、義持は我慢を強いられた。
(※しかし、この時代の勉強で難しいと感じるのは苗字だけではなく名前も覚えないといけないところ。しかもその名前が一字違いであったりすること…。それと読み方が現代と違うものが多いこと…。あと、戦乱を起こすうえで、大英帝国は弱い方に味方していたというが、足利家もそうしていた、ということがわかった。これは為政者が考える必然の選択なのか?)
足利義持と諸大名の手打ち
★義持もただ我慢していただけではなく、富樫満成などを重用。生前の義満にかわいがられていた弟の義嗣に謀反の疑いがもたれた時は満成に調査させた。もっとも義嗣は1416年の【上杉禅秀の乱】で潜在的な危険分子として殺害。さらにこれに嫌疑をふっかけて畠山、山名、土岐にも処分。
※上杉禅宗の乱:前関東管領上杉禅宗が鎌倉公方足利持氏に対して起こす。
★しかし、富樫満成は逆に義嗣に謀反をそそのかした張本人と嫌疑がかけられて、義持により追放され、畠山満家により殺害される。義持は諸大名を削ろうとしたが予想以上に反発が強く、トカゲのしっぽ切りを行ったという感じであろう。
★続いて台頭したのが赤松持定。彼は赤松家の傍流。こういう手法は義満からの遺産。しかし、播磨守護職を取り上げられた赤松満祐は激怒し京都の屋敷に火をつけ播磨へ帰る。赤松討伐の話が持ち上がるが(1427年)、やる気を見せたのは近隣の山名だけ。ここで、持定の女性スキャンダルが発覚し、切腹。これはおそらく諸大名の反発が強かったからのことであろう。満祐はその後、何事もなかったかのように帰京。彼らは決して恨みを忘れたりはしないが、同時に礼節を尽くすことも忘れない。恨みを抱いているその相手と平然と語り合い、ともに笑い合える。これにより薄氷の上の平和を保つことができたとも言える。
ハト派の重鎮、畠山満家
★義満が右大将拝賀をした際に、諸大名の先頭であった一色家であったが、6代将軍義教の際には畠山持国が先頭に決まったことに腹を立て仮病。これを問題視した義教は山名時煕、畠山満家に相談するも畠山満家は赦免を主張。赤松満祐の時もそうであった。義教は不満であったが、満家は他の大名も取り込み穏便な処分に(1430年)。
★畠山満家は義満が築いた戦後レジームの信奉者。鎌倉公方足利持氏謀反の噂の際も、穏便に解決を図る。(1431年)
★同年の九州での大内家の家督相続の際もそう。地方で少々反抗があっても幕府の屋台骨までは及ばないと言う認識があった。遠国放任策である。むしろ不用意に首を突っ込む方が危険であると。
★1433年、畠山満家62歳で死亡。南北朝内乱を経験した最後の世代だったハト派重鎮の死は義教が強硬路線に舵を切るきっかけとなる。
「戦後レジームからの脱却」を目指して
★1432年、畿内の争いには不介入であったが、筒井と越智の抗争に際して筒井支援。(大和永享の乱=室町幕府にとってのベトナム戦争)
★1433年、九州における幕府軍による大友、少弐討伐作戦。
★1434年、延暦寺の門前町坂本を焼き払う。(永享の山門騒動)⇒翌年、僧らの焼身自殺の件。
★1435年(永享7年)、大和永享の乱に本格介入。畠山持国、一色義貫が出陣。京都に残る有力大名は細川、山名、赤松。難航する越智惟通討伐に義教自身が出馬しようとするも阻止。
室町幕府の「終わりの始まり」
★関東でも再燃。反抗的な態度の足利持氏に対して関東管領上杉憲実がストッパーの役割。これにより持氏と憲実の関係が悪化。1437年、持氏は信濃守護小笠原討伐と称して憲実征伐を画策しているという噂が広まり、憲実派武将が鎌倉へ。軍事衝突寸前までいくが回避も、憲実と持氏の対立は修復不可能に。
★1438年(永享10年)、いよいよ戦争。これまで憲実と幕府は綿密に連絡をとっていたこともあり幕府の行動も迅速で幕府軍勝利。憲実は持氏の助命を嘆願するが、義教は抹殺を命じ、関東永享の乱は終結。
★幕府は二正面作戦を強いられたが、関東が終結してから大軍を大和に派遣し、1439年、ついに越智惟通を征伐。ただ、義満もできなかった関東、大和制覇をしたことで慎重さ、細心さは奪われ独裁的になり諸大名を無視。一見、「将軍権力強化」に写るが、幕府の自壊を防止するための安全弁を自ら除去することを意味した。
(※足利持氏1398-1439、上杉憲実1410-1466との間は約12歳。足利義教は1394-1441で持氏とは4歳しか離れていない。年齢順に「6代将軍義教」⇒「鎌倉公方・持氏」⇒「関東管領・憲実」。)
追いつめられた赤松満祐
★赤松満祐と足利義教は最初から仲が悪かったわけではない。義満が4歳の時に播磨に避難していた時の「赤松ばやし」の件に加え、伊勢北畠家(親房の3男の子孫)に旧南朝方が担がれた時に解決した件、大和永享の乱における弟・義雅の活躍の件など。
★永享9年、赤松満祐の所領が取り上げられる噂があったが、これは義教自ら火消しに訪れる。しかし、永享12年、関東、大和、北九州の戦乱が鎮定されると義教は強気に義雅の所領を全て没収、赤松満祐、細川、赤松貞村に配分しようとしたが、摂津小屋野(今の伊丹市)は代々惣領の土地であるため貞村に渡すことに難色。(貞村は義教のお気に入り。)
★同年、大和から撤収しようとした一色、土岐が武田信栄(安芸武田)、細川持常(讃岐)らによって謀殺。京都では一色義貫の甥である教親が義貫の館を襲撃し家臣を討ち取る。武田信栄、細川持常、一色教親は一色義貫の分国若狭、三河、丹後をそれぞれ受け取り、土岐持頼が持っていた伊勢守護職も一色教親に。彼らは義教の側近である。
★鎌倉公方の脅威こそが室町幕府を一致団結させていた元であったが、これがなくなったことで大名たちは保身に。畠山満家のように命をかけて他の大名を庇うよう諫言するものもいなくなった。
★結城合戦(結城氏朝が持氏の子を担いで下総で決起)で赤松惣領家に義教の手が伸びることはなかったが、これが落着すると加賀守護の富樫教家(満春の子)が追放。いよいよ赤松満祐も追い込まれる。
将軍犬死
★嘉吉元年(1441年)、赤松教康(満祐息子)が戦勝祝賀会を企画。この頃、連日のように祝勝会が催されていた。そこへ、甲胄を身につけた武士が後ろの襖から登場、一瞬で義教ほか、義教お気に入りの公家・三条実雅は討死。逃げた諸大名もいたが、山名煕貴、細川持春、大内持世ら討死。赤松はおそらく一網打尽を企んでいたと思うが、一目散に逃げた大名がいたおかげで完全なクーデターとはならず。(嘉吉の変)
★赤松家は播磨に逃走したが追撃する大名はおらず。大名同士も疑心暗鬼で、下手に動くと仲間と思われることが予想された。跡継ぎは8歳の嫡男であり、管領の細川持之が政務を行ったが、混迷を裁く器量はなかった。義教に押さえつけられていた不満分子に太陽政策を行ったが、これが仇となり各地で不穏な動きが見られるように。
「幕府を、取り戻す」
★嘉吉の変の翌月、追討軍が決定。摂津から細川持常、赤松貞村、赤松満政が播磨に侵攻、北の但馬から山名持豊が播磨に侵攻、山名教清が西の伯耆から美作を経て播磨に侵攻の手筈であったが、山名持豊がなかなか侵攻せず、軍資金と称して京都の金融業者から強引に金品を取りたてた。激怒した細川持之が持豊を討とうとしたため慌てて謝罪という一幕も。
★己の指導力を痛感した持之は後花園天皇に綸旨を得る。どうにか赤松を討ったが、爪痕はあまりに大きかった。7代義勝は病没、8代義政がまたしても8歳という若さで就任。政務は新しく管領に就任した畠山持国が代行することに。
★義教時代は家督相続も義教が決定するような状況であったが、以後、家督候補者が二派に分かれて激しく争うことが一般化された。彼らは家督争いを有利に進めるために幕政の中核にいる管領家と結びつこうとした。管領に就任できるのは【斯波・細川・畠山】であったが、斯波氏は相次ぐ惣領の早世で弱体化。実質、細川と畠山の二家であった。
♨管領は「ほ・し・ばたけ」(=細川、斯波、畠山)ってやつね。
★畠山持国が剛直な性格で知られる剛腕政治家。やや気分屋。
★嘉吉2年に細川持之が没すると嫡子の勝元が後を継ぐが、13歳であったため、叔父の持賢が後見。
★幕政は細川vs畠山、各守護家でも細川派vs畠山派に。
★義満時代も斯波vs細川はあったが、細川頼之は長期政権であり、その後の斯波義将も管領期間は10年を超える安定政権であった。派閥抗争よりも「対南朝」を優先するという合意があった。義政時代は3,4年でころころ変わり、その都度、守護人事、関東政策が変わって、混乱に拍車がかかった。
★1449年、義政は元服して将軍となり政治意思を発揮していく。後年のイメージが強いが初期は積極的に政務に関わっていた。
★義政は畠山持国を支援して、細川勝元を牽制しようとしたが、1455年、畠山持国が亡くなり、その後のお家騒動で畠山家が弱体化。細川勝元との関係改善および側近勢力の育成を進める。この代表が畠山持国のバックアップを受けていた伊勢貞親。しかし、伊勢貞親の台頭は管領家の地位の相対的低下を生み、今度は細川勝元と伊勢貞親の権力闘争が激化する。
空洞化する京都
★義政が伊勢貞親を登用したのは「戦争がしたかった」という側面がある。義政は義満にあこがれていた。その後、守護はなかなか戦闘に参加しなかったため不満に思っていた。
★この就任初期の度重なる軍事行動で武士は疲弊。毛利家、小早川家など、惣領のみ戦闘に参加する状態。軍役の配分を巡り、地域も軍事衝突の種になり、皮肉なことに戦乱平定のための義政の政策は地域紛争を再生産した。
★大和国の伝統ともいえる筒井vs越智、畠山家の内紛への介入に加え、生活費や交際費がバカにならなくなってきて、ついに在京の惣領たちは京都での生活を捨て、所領に帰って行った。一族支配の引き締めもあったであろう。武士たちは将軍に奉仕し、歓心を買うよりも、在国することにメリットを見出した。
★貞治・応安年間の軍事的安定で在京奉公する武士は増え、明徳の乱や応永の乱を経て京都に常駐する武士は固定化。しかし、この時期の武将にとって幕府との関係よりも当時、戦争に参加していた近隣の大大名である大内氏などとの関係が重要であった。応仁の乱の根底には各地で発生していた近隣武士間の争いが伏在していたのである。
★京都の義政は現地の実情を把握しないまま地域紛争に過剰に介入し、遠征負担に耐え切れなくなった在京直臣は次々と下国してしまった。そして京都の空洞化は幕府の求心力を弱め、中央からの制御を失った地域社会は弱肉強食の戦国時代へと突入していく。
山名宗全と戦後レジーム
★応仁の乱では足利将軍家の家督争い+斯波氏、畠山氏の家督争いに山名宗全と細川勝元の争い、と理解されているが、近年の家永氏の研究によると日野富子と山名宗全の提携は後世の軍記物「応仁記」の創作であるという。現実の山名宗全はむしろ義視と親しく、実際に応仁の乱の前年の文正の政変では義尚の養育係の伊勢貞親を追い落とし、義視をアシストしている。よって、応仁の乱と将軍後継問題は無関係。
★乱の直接的な要因となったのは1467年正月の義政の決定。細川方の畠山政長を畠山氏惣領から降ろし、山名方の義就を新惣領と認定したところにある。これに抗議して政長が管領職を降りると後任に宗全の娘婿の斯波義廉を据えた。おそらくこれは山名宗全の仕掛け。義尚を将軍にするためではなく、政権掌握が目的。これに対して細川勝元が反撃に出たのが応仁の乱であり、火付け役は山名宗全、とみられる。
★山名氏は明徳の乱で叩かれ3国となったが、応永の乱と大内盛見討伐、嘉吉の変で再浮上。かつて山名シフトを赤松、細川で行っていたが、それはこの時代も続いていた。赤松没落で細川だけで支えきれなくなってきたことでさらに膨張していたが、南朝方という旧敵国という意識などで反主流派であった。
足利義政の錯誤
★そこで山名宗全は一族の娘たちを養女としたうえで幕府の対山名包囲網を無効化した。大内氏、細川氏がその対象で、大内氏は少弐氏、細川氏は畠山氏と対立を抱えていたのでこの提携は喜んで受け入れられた。もっとも、大内氏と細川氏は瀬戸内海水運をめぐって対立することになるが。
★細川勝元が畠山持国、伊勢貞親と勢力争いをしている間に、山名宗全は着実に力を蓄える。
★1466年、伊勢貞親は足利義視に謀反の罪を着せて抹殺しようとしたが、細川勝元・山名宗全ら諸大名の反撃を受けて失脚(文正の政変)。この時、彼のグループも失脚し、足利義政は手足をもがれた格好となり、以後、政務への関心を失っていく。
★義政の最大の判断ミスは何か、という問題を考えると「京都しか視野に入っておらず、山名宗全の脅威を軽視した」点に尽きる、と考える。細川持之、畠山持国は「礼儀を存ずる輩」であったが、山名宗全は「濫吸を表す輩」、と評される。
★山名宗全は旧敵国に位置付けられ、どんなに実力があっても管領に慣れず、現状打破のメンタリティーをもっている。圧倒的な軍事力によって周囲を黙らせてきた。よって、室町幕府にとって最も危険な存在は既存の体制内で権力拡大を目指す細川勝元ではなく、戦後レジームを根本から覆そうとする山名宗全であった。義政が勝元との政治ゲームに興じた結果、宗全が漁夫の利を得て応仁の乱へとつながった。
足軽と土一揆
★応仁の乱の特徴としては足軽の横行。彼らは掠奪によって生活するしかないので寺社や富裕層から金品・資材を強奪。
★当時、土一揆は2年に1度くらいの頻度で生じていた。土倉・酒屋などお高利貸資本から借金した人々が債務破棄のために徳政を求めて一揆を起こしたというイメージが強いが、実は土一揆の主体は京都の住民ではなく、むしろ土倉に対して債務を行っていない京都近郊の農村の百姓であった。
★土一揆の側にいてもおかしくないような人物を幕府や守護は起用しなくてはいけなかった。土一揆を弾圧するために足軽を抱えこんでいた守護軍はいつしか宿敵である土一揆そっくりの姿へと変貌し、掠奪を行うようになった。
★応仁の乱の最中、土一揆は姿を消したと言うよりは、土一揆の武力が足軽として諸大名に吸収された、という表現が適する。
村の「集団的自衛権」
★室町時代においても正規軍と野伏部隊の二本立てと言う構図は変わらなかった。しかし、新たな動きとして守護軍から独立した村の軍事組織が成立していたという点が挙げられる。これは村が戦費調達の略奪対象であったことに対する自衛のためのものである。村どうしの争いの際は、銭で刺客が雇われることもあった。
★応仁の乱が始まると、西軍も東軍も、村々を味方につけようと働きかけた。村の軍事力による交通路の掌握、兵粮の補給は大事。たとえば1468年、山科の16の村々は東軍の命令で東山通路を封鎖し、西軍が大津から京都に侵入するのを阻止。この戦功は半済。つまり、武士たちが手にしていた半済を、ついに百姓が手に入れることになる。なお、宇治へ逃げた西軍の撃退要請には応じていないことからも遠征には否定的であった。以後も、半済を餌に武力を動員する形態の戦争が一般化する。これが応仁の乱が転換点であった。
勝者なき戦争
★応仁の乱の前哨戦が文正2年(1467年)正月の御霊合戦。畠山義就が畠山政長に勝利。これは山名宗全の思惑通り。5月に細川方(東軍)が室町殿を占拠して玉を確保し反撃。8月に大内正弘上洛し、西軍が巻き返すも反乱軍の汚名が痛手。ここで応仁2年、義政が伊勢貞親を呼び戻したことで義視が激怒、西軍に身を投じる。これで西軍も大義名分を確保。2つの幕府が存在することになり、西幕府も独自に守護の任命を行う。
★1473年、山名宗全、細川勝元が相次いで病死。翌年、後継者の山名政豊、嫡子の細川政元が諸将の同意を得ずに単独講和を結ぶが、戦乱はその後も続いた。足軽の無軌道な行動は諸大名も統制できなくなっていた。
★1477年、西軍が解散、その後は義政⇒義尚となったことから、あえて言うなら「東軍の勝ち」とされているが、細川氏が命がけで守ろうとした戦後レジームは内側から壊れていった。まず、守護在京制の崩壊。細川氏に至っても、権力の及ぶ範囲が限定され、庶子家も含めた同族連合体制は無実化してしまった。
墓穴を掘って下剋上
★戦後レジームの自壊を象徴する第2の現象が、守護家の凋落に代表される身分秩序の解体である。もともと義政は斯波義敏の家老である甲斐常治、京極持清の重臣である多賀高忠、赤松政則の重臣である浦上則宗などの陪臣に直接指示することが多かった。これは守護が自分の命令に従わないために編み出した苦肉の策であったが、将軍を頂点とする武家社会の身分秩序を自ら破壊することとなった。
★こうした傾向は応仁の乱の発生で顕著に。1470年、西幕府は大和の一武将に過ぎない越智家栄を和泉守護に任命。それまで西軍の出征要請に軍勢は派遣したものの本人は大和を離れなかったのに対して、早速河内に自ら出陣するなど抜擢人事の効果は抜群であった。
★同様の人事は東幕府も行っている。例として【朝倉孝景】は斯波義廉の重臣であったが東軍に寝返るにあたって越前守護を要求。東越前の越前守護は斯波義敏が就任していたが、のちに正式に任命書を送るとして引き抜き。結局、この約束は実行されなかったが、将軍や大名がこの種のことが行われることに抵抗感がなかったことは注目に値する。実力のあるものに一国の支配を任せると言う考えは下剋上を容認する考え方でもある。
★1493年、細川政元はクーデターで10代将軍足利義材(義稙)を廃立。(明応の政変。)その政元も1507年、家臣の香西元長により暗殺。元長は政元の養子の澄之を新当主にした。(永正の錯乱。)足利義政や細川勝元はおのれの利益のために下剋上の風潮を煽ったが、それによって勢いを増した下剋上の嵐はやがて将軍家や京兆家(細川本家)自身をも飲み込んでいった。
平和は「きれい」か
★足利義教や義政が関東や大和の軍事介入に踏み切り、抵抗勢力を徹底的に排除しようとしたことに対して戦後の歴史家は厳しく批判してきたが、将軍の命令に従おうとしない反抗勢力を放置することで得られる平和はかりそめに過ぎないという主張が彼らにはあるだろう。もっとも、彼らは遠隔地への出陣に後ろ向きであった武士の現実を無視していた絵空事でもあったが。
★南北朝期、一時的に南朝に降参した尊氏、幕府に反抗的な大内、山名をあっさり許した義詮は信念のない機会主義者にも見られる。
★義満の平和も幾多の謀略によるものであり、義持は諸大名との武力衝突を避けるため側近を切り捨てた、彼らは猜疑心が強く、酷薄な人間だが、まずまずの平和を実現したところは評価できるとしても、大した理想などなかったのではないか。
★筆者は改憲は必要ないと思うが、9条を過度に美化するのも違和感を覚える。9条が今まで維持されてきたのは「今の生活を守りたい」という程度の素朴な心情によるものだとみる方が自然である。
★アメリカの軍事力の傘で維持された日本の平和が立派なものかどうかも一考の価値があるだろう。小林よしのり的な、あるいはネット右翼的なものは魅力的に映るのが当然で、「カッコよさ」で護憲派の勝ち目はない。ただ、だからといって改正ではない。小林氏の言う「平和ボケ」であろうと、朝鮮戦争やベトナム戦争に派兵するような仮想日本より今のあゆみの方がマシだった、と思いたい。もっとも、人類は太古より戦争をしており、平和を愛しているとは言い難い。
★しかし、完璧な平和を追い求めることはかえって戦争を招きよせる危険がある。後醍醐天皇、足利義教、義政も「恒久平和のための戦争」をレトリックとして使用したが、これにより破滅した。本当に平和を創造維持しようとするなら、現実主義に立脚すべきである。(善隣外交や友愛なんて言わずもがな。)畠山満家は諸大名の勢力均衡を維持するためには義持側近を殺害することをためらわなかった。
★戦うことが仕事の武士でも無益な戦争は望まなかった。単なる損得勘定でもあるが、日本の平和主義は現実よりも理念に傾いている。ハト派こそリアリズムに徹するべきであろう。
(※マーガレット・サッチャーが以前、「政治に必要なものは?」との問いにしばらく考えて、「しっかりした野党の存在」と言ったというのを思い出した。室町時代の政治を見ると「適度な敵対勢力」がいるということがいかに大事かがよくわかった。)
summary (略年表)
1416年、上杉禅秀の乱に際し、足利義嗣殺害。しかし、計略を行った富樫は畠山満家により殺害。
1427年、赤松満祐討伐軍が組織されるが、結局、赤松満貞を手討ちに。足利義持政権は妥協によって成立していた。
1433年、ハト派重鎮として、鎌倉公方の足利持氏謀反疑いや大内氏の家督相続の際などで穏便な処置を行った畠山満家が死亡。義教が強硬路線に舵を切るきっかけとなる。
1434年、延暦寺の門前町坂本を焼き払う。(永享の山門騒動)
1435年、大和永享の乱に本格介入。
1438年、関東永享の乱。足利持氏ついに抹殺。関東が終結してから大軍を大和に派遣し、1439年、ついに越智惟通を征伐。ただ、関東、大和制覇をしたことで独裁的になり諸大名を無視。一見、「将軍権力強化」に写るが、幕府の自壊を防止するための安全弁を自ら除去することを意味した。
1441年、嘉吉の変。義教時代は家督相続も義教が決定するような状況であったが、以後、家督候補者が二派に分かれて激しく争うことが一般化。彼らは家督争いを有利に進めるために幕政の中核にいる管領家(斯波・細川・畠山)と結びつきを求めた。斯波氏は相次ぐ惣領の早世で弱体化。実質、細川と畠山の二家。幕政は細川持之、勝元vs畠山持国、各守護家でも細川派vs畠山派に。義満時代は派閥抗争よりも「対南朝」を優先するという合意があった。義政時代は3,4年でころころ変わり、その都度、守護人事、関東政策が変わって、混乱に拍車がかかった。
1449年、義政元服。後年のイメージが強いが初期は積極的に政務に関わっていた。畠山持国を支援。
1455年、畠山持国死亡、その後のお家騒動で畠山家が弱体化。細川勝元との関係改善および側近勢力の育成を進め、伊勢貞親をバックアップ。しかし、今度は細川勝元と伊勢貞親の権力闘争が激化。この頃の武士たちは将軍に奉仕し、歓心を買うよりも、在国することにメリットを見出した。応仁の乱の根底には各地で発生していた近隣武士間の争いが伏在していた。
1466年、伊勢貞親は足利義視に謀反の罪を着せて抹殺しようとしたが、細川勝元・山名宗全ら諸大名の反撃を受けて失脚(文正の政変)。この時、彼のグループも失脚し、足利義政は手足をもがれた格好となり、以後、政務への関心を失っていく。
1467年、応仁の乱。近年の家永氏の研究によると日野富子と山名宗全の提携は後世の軍記物「応仁記」の創作であるという。現実の山名宗全はむしろ義視と親しく、実際に応仁の乱の前年の文正の政変では義尚の養育係の伊勢貞親を追い落とし、義視をアシストしている。よって、応仁の乱と将軍後継問題は無関係。乱の直接的な要因となったのは1467年正月の義政の決定。細川方の畠山政長を畠山氏惣領から降ろし、山名方の義就を新惣領と認定したところにある。これに抗議して政長が管領職を降りると後任に宗全の娘婿の斯波義廉を据えた。これに対して細川勝元が反撃に出たのが応仁の乱である。山名氏は明徳の乱で叩かれ3国となったが、応永の乱と大内盛見討伐、嘉吉の変で再浮上。かつて山名シフトを赤松、細川で行っていたが、それはこの時代も続いていた。赤松没落で細川だけで支えきれなくなってきたことでさらに膨張していたが、南朝方という旧敵国という意識などで反主流派であった。そこで山名宗全は一族の娘たちを養女としたうえで幕府の対山名包囲網を無効化した。大内氏、細川氏がその対象。義政の最大の判断ミスは何か、という問題を考えると「京都しか視野に入っておらず、山名宗全の脅威を軽視した」点に尽きる、と考える。細川持之、畠山持国は「礼儀を存ずる輩」であったが、山名宗全は「濫吸を表す輩」、と評される。室町幕府にとって最も危険な存在は既存の体制内で権力拡大を目指す細川勝元ではなく、戦後レジームを根本から覆そうとする山名宗全であった。応仁の乱の最中、土一揆は姿を消したと言うよりは、土一揆の武力が足軽として諸大名に吸収された、という表現が適する。また、新たな動きとして守護軍から独立した村の軍事組織が成立していた。
応仁2年、義政が伊勢貞親を呼び戻したことで義視が激怒、西軍に身を投じる。これで西軍も大義名分を確保。2つの幕府が存在することになり、西幕府も独自に守護の任命を行う。
1473年、山名宗全、細川勝元が相次いで病死。翌年、後継者の山名政豊、嫡子の細川政元が諸将の同意を得ずに単独講和を結ぶが、戦乱はその後も続いた。足軽の無軌道な行動は諸大名も統制できなくなっていた。
1477年、西軍が解散、その後は義政⇒義尚となったことから、あえて言うなら「東軍の勝ち」とされているが、細川氏が命がけで守ろうとした戦後レジームは内側から壊れていった。まず、守護在京制の崩壊。細川氏に至っても、権力の及ぶ範囲が限定され、庶子家も含めた同族連合体制は無実化してしまった。
1493年、細川政元はクーデターで10代将軍足利義材(義稙)を廃立。(明応の政変。)
1507年、その政元も、家臣の香西元長により暗殺。元長は政元の養子の澄之を新当主にした。(永正の錯乱。)足利義政や細川勝元はおのれの利益のために下剋上の風潮を煽ったが、それによって勢いを増した下剋上の嵐はやがて将軍家や京兆家(細川本家)自身をも飲み込んでいった。
終わり
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