~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、前回前々回に引き続き『もう一つの幕末史』(半藤一利、2015年、三笠書房)です。

第4章では、戊辰戦争で圧倒的不利の中でも戦いを挑み、官軍を震え上がらせた河井継之助、

(※「河合」ではない。)

第5章、第6章では坂本龍馬について書かれております。

§4.圧倒的薩長軍に抗したラストサムライー河井継之助の「不合理を超える」生き方

石原莞爾が陸軍大学校の卒業論文で題材にしたのが、この河井継之助。

2022年には役所広司さん主演で、映画が公開されます(「峠 最後のサムライ」)。

https://touge-movie.com/

敵である西郷隆盛も河井継之助には一目も二目も置いておりました。

半藤先生は、祖先が長岡藩士であったこともあり、河井継之助には相当思い入れが強かったことでしょう。

さて、ざっくり説明しますと、長岡藩は武装中立を標榜しておりましたが、

河井継之助は、

「忘恩の王臣たらんよりも、全義の陪臣となり」

として、西軍と戦うことを「藩論」としてまとめます。

彼は知識と実践の一致(知行合一)を根本思想とする陽明学に忠実なんだ。

事を起こすことの美しさを突き詰めていた。

その点では松陰先生と一緒だな。

そもそも下級武士であった河合継之助は、上奏文が優れていたため出世しました。

おいどんと同じでごわすな。

国語力は大事でごわす。

門閥との軋轢もありましたが、正面対決の姿勢を崩しませんでした。

そして、藩主が牧野忠恭に代わると、庄屋と村民の争いを早期鎮静したことなどが認められ、39歳にして抜擢されていくのです。

その後も、辣腕をふるい、藩内を佐幕派でまとめた後、ついに上席家老(首相)となり兵制改革へ。

オランダ製ミニエー銃に統一したうえに、日本に三門しかなかったガドリング速射砲を二門購入しました。

…そんな最中、戊辰戦争が起こりましたが、「小千谷会談」で決裂したため西軍と戦闘になりました。

このあたりが映画でどう描かれるか見ものです。

結果、西園寺公望、山縣有朋をあと一歩まで追いこむも、敗北してしまいます。

(重症で足を引きずりながらも峠を超えて会津を目指す姿勢も凄すぎる。医学的に考えても驚異。)

銃で撃たれたのに歩いている時点ですごいのですが、

そこから菌が入って全身に巡っている状態で歩き続けている点でビックリです。

現代なら緊急手術、術後集中治療コースですよ。

まもなく河井継之助は敗血症により死亡。

その後、長岡藩はいわば新政府に「冷や飯」を食わされる形が長く続き、

半藤先生も随分つらい思いをしたとのことでした。

もし、新政府軍に恭順していれば、そんな辛い思いもしなかったことでしょう。

よって、「奇跡の英雄児」としながらも、

「その評価は難しい」と結ばれております。

§5.なぜ龍馬はみなに愛され、そして殺されたのか?-「独創性のない」偉大なコーディネーターの素顔に迫る

つづいて、坂本龍馬。

土佐藩では関ヶ原で徳川についた山内一豊が移封されて城主になってからの「上士」と、

関ヶ原以前の長曾我部家の旧臣が取り立てた「郷士」の格差がひどい土地柄でした。

坂本龍馬、武市半平太は郷士で差別を受けたため、

武市半平太は土佐勤王党をつくり、尊王攘夷を志向します。

しかし武市は藩から弾圧を受けてしまい、そして坂本は幕藩体制の限界を感じて脱藩します。

脱藩から暗殺まではわずか5年ですが、実に濃厚な5年であったことでしょう。

坂本のすごいところは「理解力」と「咀嚼力」とされております。

実を言いますと、「薩長同盟」は中岡慎太郎の案であり、

「大政奉還」は大久保一翁、勝海舟の案でした。

しかし、完全に自分のものとしていたため、交渉においては、存分に力を発揮します。

オリジナルではなくても、これができる人、ってなかなかいないと思いますよね。

そういった面からも、坂本は偉大な人物であったと思います。

また、「誰に暗殺されたのか?」という話は歴史愛好家の中での興味の1つです。

徳川慶喜の大政奉還の決断を聞いた時は、「自分はこの将軍のために命を捨てよう」と涙を流したそうですが、

時曲は龍馬の理想を裏切るように、薩摩と岩倉は謀って、偽勅を発して武力倒幕を目指しました

坂本は基本的に非戦論者ですので、武力討伐を目論む薩摩藩グループ(大久保利通?)に殺されたのではないかという推測は後を絶ちませんね。

京都見廻組、今井信郎も候補。

銀魂でいうところの今井信女。

おまけ:「英将秘訣」(龍馬が書いた?)

  1. 義理など夢にも思うことなかれ。身を縛らるるもの也。
  2. 恥という事を打ち捨てて、世の事は成るべし。
  3. 礼儀などというは、人を縛るの器也。
  4. 俸禄などというは、鳥に与うる餌の如きもの也。天道あに無禄の人を生ぜん。予が心に叶わねば、やぶれたるわらじをすつる如くせよ。
  5. なるだけ命は惜しむべし。二度と取り返しのならぬもの也。拙きということを露ばかりも思うなかれ。

§6.「薩長同盟」は馬関から始まった-桂小五郎、高杉晋作と坂本龍馬の「理屈抜きの友情」

下関の長州藩御用商人廻船問屋「白石正一郎」邸は、歴史の舞台でした。

ここは、坂本龍馬と久坂玄瑞の会談(1862/1/14)、坂本龍馬と桂小五郎の薩長連合の話、坂本龍馬と高杉晋作の会談などが行われました。

半藤先生の見解では、最初に一途な久坂(当時23歳)と会ったことが龍馬に「草莽」に生きる決意を固めたのではないかとされております。

久坂玄瑞と会った2ヶ月後には脱藩。

もし、似た系統である高杉と先に会っていたら、互いにそこに惚れ込むような甘さはないため、ここまで影響されなかったのではないか、とも書かれております。

また、薩長同盟成立時、高杉は命を追われて四国に逃げていたため、長州藩のリーダーは桂でした。

桂と坂本は兄弟のような間柄になりますが、この時のリーダーが桂だったのも天の配合かも知れません。

もちろん、坂本と高杉の間にも縁はあり、高杉からもらった鉄砲のおかげで、坂本は寺田屋で命拾いしました。

ぜひご一読を。

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