~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「村上天皇、冷泉天皇、円融天皇」の時代です。

村上天皇に関しましては、「醍醐・村上の治世・・・」と評されることが多いのですが、はたして本当にそうだったのでしょうか。

そして、村上天皇死後、「969年の安和の変」をもって藤原氏の他氏排斥は完了します。

ただし藤原氏内部の争いは絶えないのですね…

村上天皇の後を継いだ冷泉天皇は病弱。

その次の円融天皇は一代限りの中継ぎ天皇で、26歳で出家(上皇としては依然として力を持っていたが)ということで、2人は覚えなくても良いです。

ただ、その間に藤原氏による摂関政治は磐石なものに完成したことは覚えましょう。

第62代:村上天皇時代(946年~967年)

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」10巻より。村上天皇が積極的に政務に参加する姿勢を描いた場面。効いているのが藤原師輔というのがポイント。(藤原実頼ではないということ。)

【村上天皇】…926-967。醍醐天皇の第14皇子。関白藤原忠平の死後は摂関を置かず親政を行い、後世「天暦の治(てんりゃくのち)」と称された。

しかし、律令体制は解体の途上にあり、地方政治は乱れ、盗賊は横行、悪疫の流行、水旱の災などに悩まされることに。

そして、時代は「摂関政治時代」に戻る。

946兄の朱雀天皇より譲位を受け、村上天皇即位。

左大臣が藤原実頼(兄:忠平の長男)、右大臣が藤原師輔(弟:次男)兄弟。
947 道真を祭る北野天満宮が建てられる
949藤原忠平没。
950 中宮安子にのちの冷泉天皇産まれる
959 清涼殿で闘詩(詩合)が行われる

中宮安子にのちの円融天皇産まれる

【中宮安子】…927年生まれ。940年に入内。当時、藤原北家の間ではともに村上天皇に嫁いだ藤原安子(藤原師輔娘)藤原芳子(藤原師尹娘)が対立していた。芳子は側室ながらも美貌と教養の高さを見せるも、安子は村上天皇との間に3男4女をもうけた。『大鏡』においては壁の穴から芳子に土器の破片を投げつけるというその嫉妬深さが記されている(割と有名なシーン。)。彼女の息子はのちの冷泉天皇、円融天皇。7人目の出産に際して崩御。38歳(964年)。

※藤原師尹は藤原忠平の5男。
960藤原師輔没。

おたふくかぜが流行。

趙匡胤が宋王朝を建てる
966源高明、右大臣となる

※源高明は醍醐天皇第10皇子。藤原師輔、中宮安子(師輔の長女)のバックアップがあり昇進。藤原師輔の娘(三女、五女)を娶り、名実共に師輔の後継者を目指していた。のち安和の変(969)で失脚
967村上天皇42歳で没、息子の冷泉天皇が17歳で即位。

藤原実頼が関白に、源高明が左大臣に、藤原師尹が右大臣に。

延喜式施行

※安子vs芳子のシーンは角川の学参マンガにもあったような。

空也と浄土宗

この時代に活躍したのは僧は空也。

道路の修復なども行いました。

市の聖とも呼ばれております。

浄土宗の先駆者。

「空也上人像」でも有名。

六波羅蜜寺 「空也上人像」。 口から出ているのは「南無阿弥陀仏」の6文字。写真はwikipediaより。

♨浄土宗の主な流れ

空也(903年生)

⇒源信(942年生)「往生要集」、慶滋保胤(931年生)「日本往生極楽記」

⇒平等院鳳凰堂(1053年)

⇒法然(1133年生) 『選択本願念仏集』

⇒親鸞(1173年生)、一遍(1239年生)

⇒蓮如(1415年生)

⇒石山本願寺(1533年)

日本文化史はコチラの参考書を一読すれば概観はつかめる