【第2部 戦国時代は人々を自由にしたか】
<Ⅰ.閉塞とV字回復の15世紀>
★義教の時代におきた京都の米商人の結託による仕組まれた飢饉では、米商人6人が裁かれたが、6人で京の七口を押さえられるはずがない。その背後に所司代など与党の商人がいたことは明白だ。
★京都は<閉塞型飢饉>を起こしやすい都市であった。15世紀に入ると寛正の飢饉など<流入型飢饉>のパターンが増える。しかし15世紀後半にはV字回復を成し遂げている。京都が<すぐに飢える都市>から、<簡単には飢えない都市>へと脱皮していた時代であった。
<Ⅱ.足利義政と寛正の飢饉>
★足利義政は無能と流布されているが、天皇にも批判されたとする幾多の造営事業が難民を救うためのニューディール政策だった、という説もある。途中からは僧の勧進に切り替える(勧進を中間団体ととらえる)などの手も。
※鎌倉後期は稀に見る合議制の時代であった。この中から北条泰時、安達泰盛が頭角を表した。(※泰時は飢饉、泰盛は元寇という危機に際して。)
★15世紀後半のV字回復の原因として、民間団体の存在も考えられるが、政策的なものにより秩序が保たれたのではないか?
<Ⅲ.都市は生きやすいか>
★町人の自治獲得は、異分子を排除することで成り立っている。
<Ⅳ.惣村は住みやすいか>
★戦国時代は中世荘園制(在地領主制)から村請制に代表される村町制への転換。和泉国日根荘では1417年に村請制が成立。村と領主の起請契約に基づき定額納入となった。これにより豊作時の貯蓄などが可能に。村では名主、沙汰人と呼ばれたまとめ役が力をつける。
問題点として、
①まとめ役が良い人とは限らない、
②村の行事にお金をとられる、
③より高く払わされることもある、など。
★別言すれば、近世幕藩体制国家は、中世自治村落の中に胚胎した、といる。<老中ー若年寄>は、<老中ー若衆>と同質。
★しかし、惣村は新しいものを創り出していない。新しいものを生み出す可能性をもっていたのは、村民から見て「軽んずべきつまらぬ人、または、モノの数にも入れられない人」。
<Ⅴ.埋め立てられる間隙ー徳川政治の起源>
★日本は単一民族国家ということを前提とした議論はもう既に破綻。境は、沖縄やアイヌではなく静岡県東部の黄瀬川(沼津)。
♨鎌倉4代将軍九条頼経もそこで別れの詩を。
★情報センターでもある黄瀬川流域(静岡県)は日本列島屈指の重要拠点。1180年「富士川の戦」では先に頼朝が黄瀬川流域をおさえたため勝利した。きわめて生産力の高い肥沃な土地も多く、北条、武田、今川が争う(実質は御用商人の取り合い)。
<Ⅵ.信長は中世を破壊したか>
★中世の神々の権威を否定はしていないが、統合してそのうえに立つという思想。
<Ⅶ.豊臣秀吉が壊し、作り変えたもの>
★東山の大仏殿建立(のち消失)と五条橋の付け替えは関連。1596年大地震、1598年死去、1602年大仏殿消失。五条橋は中の島も撤去され、勧進橋から公儀橋へと変わった。
【終章 江湖放浪を決意すること】
<ⅰ.丸山眞男と文芸的公共圏>
<ⅱ.吉宗の時代の災害ボランティア>
<ⅲ.江戸時代の読書革命>
略
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