~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「古代史講義(ちくま新書)第3講」より、「蘇我氏とヤマト王権」です。

前編はコチラ

★推古天皇崩御の際に、後継者をめぐって蘇我氏一族は分裂。蝦夷が叔父・境部摩理勢を討つ。

★蘇我入鹿が山背大兄王ら上宮王家一族を滅亡させた事件には軽皇子、中大兄皇子も関与している可能性がある。

★緊迫化する朝鮮半島情勢を背景に、蘇我入鹿は外交方針の対立をめぐって殺されたという説もある。

★蘇我本宗家は滅亡したが、蘇我氏の果たした役割は大きい。

蘇我蝦夷(587-645)

★628年、推古天皇崩御に際して群臣を集めて会議を行った。会議では敏達天皇の孫である田村皇子(のちの舒明天皇)を推挙する蝦夷らのグループと、聖徳太子の息子である山背大兄王を推す境部摩理勢(馬子の弟)のグループに分かれた。

★会議は紛糾し、説得できなかった蝦夷は境部摩理勢に軍勢を差し向けて討伐した。なお、蝦夷の弟にあたる蘇我倉麻呂も態度を保留していた。この件は蘇我一族にもほころびが見えたことを示す。

★なお、田村皇子は蘇我氏の地を引いていなかったが、蝦夷の妹と結婚して皇子をもうけていて、将来的にこの皇子(古人大兄皇子)の即位を目論んでいた。古人大兄王は乙巳の変ののち中大兄皇子に殺害される。

★病のため、643年、入鹿に権力を譲位。乙巳の変で自害。

舒明天皇(田村皇子:593-641)

★第34代天皇。蘇我蝦夷の後押しもあり推古天皇の後の天皇に即位。

★莫大な規模を誇る百済大宮・百済大寺を造営。蘇我氏の後押しで天皇になったが、蘇我氏への対抗意識も窺える。

皇極天皇(舒明天皇后:594-661)

★舒明天皇死後、跡を継ぎ第35代天皇となる。

★蝦夷らは引き続き大臣を続ける。皇極天皇期から蘇我入鹿が史上に登場する。

古人大兄皇子(~645)

★舒明天皇第一皇子。母は蘇我馬子の娘。入鹿は彼を皇極天皇の次の天皇にしようとした。

★乙巳の変で入鹿という後ろ盾を失い、その後、謀反の疑いで中大兄皇子に滅ぼされた。

★中大兄皇子は異母弟にあたる。

山背大兄王(~643)

★父は聖徳太子、母は馬子の娘。

★推古天皇の次の天皇をめぐって、田村皇子を推す入鹿と対立。馬子の弟でもある境部摩理勢は山背大兄王の味方であったがゆえに入鹿に殺害された。

★「上宮王家滅亡事件」で蘇我入鹿により滅ぼされる。

→【上宮王家滅亡事件:古代史講義戦乱篇より

元写真はwikipediaより。真ん中が聖徳太子で向かって右側が山背大兄王とされる。

蘇我入鹿(611-645)

★643年、山背大兄王を襲撃、上宮王家一族を滅亡させた。この件は蘇我入鹿単独犯説のほか、軽皇子(のちの孝徳天皇)や中大兄皇子、中臣鎌足なども加わっていた可能性が考えられている。

→【上宮王家滅亡事件:古代史講義戦乱篇より

★645年、乙巳の変で殺害される。同族の蘇我倉石川麻呂も敵方であり、父子直系で大臣を独占したい蘇我本宗家と同族たちの対立と言う見方もされる。

★また、当時、朝鮮半島情勢が変動しており、外交方針の対立による殺害という見方もされている。入鹿はいち早く中央集権国家を建設しようと考えていたと思われる。

蘇我本宗家は滅んだが…

★蘇我氏の中心は蘇我倉氏に移行。石川氏と名を変えて後世まで命脈を保つ。

★屯倉制、国造制など、蘇我氏が地方政治において果たした役割は大きい。特に丁籍による田部の管理は律令制の先駆であり、蘇我氏の開明性がうかがえる。

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