~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「古代史講義(ちくま新書)」第8章、「遣唐使と天平文化」です。

日本は、「シルクロードの終着駅」と言うより、

「国際都市・長安に着いたものの一部が辿り着いた」

に過ぎず、

日本の国際性を過大評価することは避けるべき、とのことです。

執筆は宮内庁正倉院事務所保存課長、飯田剛彦先生。

【世界史】8世紀の世界

少し世界史の理解が必要です。

【Copyright© 2019 世界の歴史まっぷ】より引用。

https://sekainorekisi.com/download/8%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9C%B0%E5%9B%B3/

751年「タラス河畔の戦い」で「アッバース朝」と「唐」という大帝国同士の争いが起きました。

この時、捕虜を通じて、唐の製紙技術が西方に伝わったことでも知られます。

【世界史】大唐帝国の簡略史

唐の歴史を知っておくと有利でしょう。

とりえあず「約300年」続いたということは覚えましょう。

建国したのは李淵ですが、初代よりも2代目の「李世民」の方が有名です。

また、3代目は高宗ですが、妻の「則天武后」の方が有名です。

6代目・玄宗は前半、治世を行いましたが、後半は楊貴妃に溺れて指導力を発揮できませんでした。

「安史の乱」が起きたのもこの時期で、以後、唐は傾いていきます。

塩の密売人となった「黄巣」の乱でさらに打撃を受けた唐は、黄巣の部下であった朱全忠によって最終的に滅ぼされました。

618李淵により唐が建国。
626玄武門の変で兄を殺した李世民が二代目皇帝となる。
「貞観の治」と呼ばれる治世。
630東突厥を服従させる。
657高宗、西突厥を滅ぼす。
660高宗、百済を滅ぼす
663白村江の戦い
664この頃から則天武后が実権を握る。
668則天武后、高句麗を滅ぼす。
690則天武后、国号を「周」として女帝となる。(~705年)
712玄宗即位。
「開元の治」と呼ばれる治世。
751タラス河畔の戦い。
755安史の乱。
780両税法。
874黄巣の乱。
907朱全忠が禅譲(実際は脅し)により唐を滅ぼす。

正倉院宝物の95%以上は日本製

正倉院宝物には9000点が存在しますが、このうち、舶来品は5%にも満たないそうです。

教科書に掲載されるものは「舶来品」であるため、誤った理解につながりやすいところです。

【正倉院宝物】

正倉院宝物は756年、聖武天皇死後に光明皇太后が東大寺に寄進した。
螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんのごげんびわ)などが存在。
西アジア、南アジアの影響も受ける。

鳥毛立女屏風(こちらは国産品)も有名。

※元画像はwikipediaより。

「仏教文化の受容」が天平文化の特徴

天平文化の特徴は「仏教文化」です。

平城京の内外に建てられた寺院、国分寺・国分尼寺などに象徴されます。

遣唐使・留学僧たちは経典を写経したり、仏具を取り入れたりなど、より良いものを吸収しようと努めました。

鑑真はその使命感から、日本における経典一切を自分の手で校訂しました。

【鑑真】

688出生。
742 日本僧の栄叡、普照から戒律を伝えるよう懇請。
弟子たちは誰も日本に行きたがらないために自ら渡航することを決意。
7431回目の渡航企図。
渡航したくない弟子が「日本僧は海賊」と言い出して出航できず。
7442回目の企図。暴風雨で退却。
3回目、4回目は鑑真の日本行きを惜しんだ弟子たちにより阻まれる。
7485回目の企図。暴風雨で退却。
753遣唐副使・大伴古麻呂の執念で鑑真出航、無事に日本に辿り着く。
754奈良へ辿り着く。東大寺大仏殿に戒壇を築く
759唐招提寺建立
763唐招提寺で死去。
唐招提寺が象徴的な寺ですが、戒壇は東大寺という点を混同せぬよう。

【鑑真】
★超大物助っ人。
★最初に戒壇を築いたのが東大寺で、のちに建立したのが唐招提寺。
★鑑真来日により戒壇制度が急速に整った。(正式な僧が認められる。)鑑真の功績は大きい。

♨比較的同じ時代に行基(668-749)がいるが、こちらは正式ではない私度僧。
大仏建立に尽力したが鑑真来日前に死亡している。

唐・鑑真以外にも助っ人が!

インド僧「菩提僊那」、ペルシャ人「李密翳(りみつえい)」、「林邑僧」・「仏哲(ぶつてつ)」なども来日しております。

本人か関係者かは不明ですが、ペルシャ人「破斯清通(はしのきよみち)」が官人として働いていた木簡も確認されているんですって。

【まとめ】
★「天平文化」と「仏教文化」・「遣唐使」はセットで覚える!
★正倉院宝物の95%以上は日本製。鳥毛立女屏風も国産。
★鑑真の功績は大きい。

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