②劉仁軌将軍の采配がズバリ…
斉明天皇は逝去しましたが、ヤマトは援軍を送ります。
しかし、肝心の百済遺臣の間で内紛が生じます。
もっとも、劉仁軌将軍はこれを予測していました…
劉仁軌将軍はさらに援軍を求め、百済を追い詰めます。
661年7月 | ★斉明天皇、24日に死去。 |
661年8月 | 唐の蘇定方、高句麗の首都・平壌城を包囲 ※寒波により翌年3月退却 ※新たに新羅王となった金法敏は自ら旧百済軍と戦闘 ※百済との戦いに唐はほとんど入ってこない ★倭、第一陣を派兵 |
661年9月 | ★中大兄、長津宮に戻る ※以後、続々と百済へ派兵 ※この頃、百済では鬼室福信が共に戦っていた僧道探を殺害するという事件が起きる(百済で内紛?) ※豊璋帰国で盛り上がる(?) |
662年1月 | ★倭は鬼室福信に10万の矢を贈る。 |
662年3月 | 蘇定方、高句麗より退却 |
662年7月 | 唐の将軍、劉仁軌が新羅兵を率いて百済の城を落とし、新羅に通じる食料運搬の道を確保。なお、唐は劉将軍の要請に従い援軍派兵。 一進一退の攻防から唐・新羅軍が明確に優勢になったのはこの時期である。 |
662年12月 | 百済王豊璋、山高い州柔から農業ができる場所へ居城を移す ※会議に参加した倭軍の将軍は反対したが、聞き入れられなかった。旧百済軍は山城にこもっていられなくなるほど規模が大きくなっていたのであろう。 |
663年2月 | 旧百済軍、新羅軍の侵攻により再び州柔へ居城を変更 |
663年3月 | ★倭、2万7000の軍で新羅を討つ 上毛野稚子、阿倍引田比羅夫など。 |
663年6月 | 百済王豊璋が鬼室福信を殺害(内紛の末路) |
劉仁軌(602-685)。
唐の将軍。
660年、遼東遠征で水軍を統括していたが、遅刻したことより一兵卒まで落とされた。(この時、59歳!)
661年、旧百済軍の決起に際して、志願して援軍に赴き、旧百済軍を撃破。
662年、高宗からは新羅と共に兵を引き揚げて良いというようなことを言われるが、高句麗を滅ぼすには百済を滅ぼすことが重要であると説き、増派依頼。
百済の豊璋王と鬼室福信が仲違いするであろうことも見抜いていた。
「高句麗を滅ぼそうと思うのならば先に百済を滅ぼすべきです。だからさらに兵を乞います。平壌の軍が帰り熊津を退却すれば百済の余燼はすぐに復活し高句麗も勢いが高まりいつ滅ぼせるかわからなくなります。賊の中心は一城であり、そこを失えば亡虜となるでしょう。まして福信は凶暴残虐で、余豊は疑い深く外では合っているように見えて内側では離れています。勢いがあるように見えてその勢いは必ずお互いを傷つけるでしょう。」
劉仁軌
倭は百済に援軍を送りますが、百済遺臣の間で内紛勃発。
一方、着々と百済の城を落としていた劉仁軌将軍は、「高句麗を落とすにはまずは百済から」と高宗に説き、さらに援軍を得ます。
③白村江でヤマトと唐が「遭遇」!
「唐は百済には来ていない」と遣いが言っていたこともあり、倭は唐と戦うことは想定していなかった、と考えられております。
しかし、倭の援軍と唐の水軍が「遭遇」してしまいます。
この「白村江の戦い」で倭軍は大敗。
なお、倭国の陸軍は新羅軍と互角に戦っていましたが、
唐の水軍との差は歴然でした。
663年7月 | 17日、唐軍と新羅軍が熊津で合流 ここでの会議で劉仁軌が州柔を攻めることを提案。陸軍と水軍に分かれて進み、合流して州柔城へ行く計画。 |
663年8月 | 倭の援軍と唐の水軍が期せずして「遭遇」。 倭・百済軍は「われらが先を争えば、相手は自ずから退却するだろう」と固い唐の陣につっこんだが、左右から挟まれ大敗。 ※倭船は400隻が焼かれたとも。 ※岸辺では新羅軍が旧百済軍と戦い勝利。多くの武将は投降し、豊璋は数人と船に乗って高句麗へ亡命。 |
663年9月 | 王のいない州柔城が陥落 劉仁軌は武功により6階級昇進、帯方州(百済地方)刺史に任命された。 |
唐と新羅が合流した軍議で、誰かが水陸の要衝である加林城を討ちたいと言ったところ、
「加林は堅固で攻めにくい。まず賊の巣穴である州柔を先に攻めれば賊は下るだろう」
として、州柔城侵攻を進言。
途中で倭の水軍に「遭遇」し、400隻を焼いたのが「白村江の戦い」。
州柔城も陥落させた。
- 【ここまでのまとめ】
百済の援軍である倭国水軍と、州柔城を目指していた唐国水軍は、白村江で「遭遇」。
倭国船400隻が焼かれ、唐国水軍が勝利した。
そして、百済の州柔城も陥落。